緋紅的牡丹

□世界でいちばん醜い愛を
1ページ/2ページ







「アンタ、お菓子作れるんだって?ちょっと作ってよ。お腹すいたから。」

そう言って古びた蝶番の音を響かせながら、三浦ハルを地下から救い出したのは、傲慢な見目麗しい、お金が大好きな女の人。

彼女はM・Mと名乗った。本名なのか実名なのか、ハルにはそれを探索する隙を彼女は与えなかった。

久しく感じる外部からの刺激に思わず涙を流して啜り泣いたほど、カビ臭い地下牢からの脱獄は、囚人のハルにとっては幸福に満ち溢れていた。たとえその日が雨の日だったとしても。

濡れた前髪が張り付き、伸ばしっぱなしの髪の毛が背中に貼りつく。手を引っ張っていく女の指先には、赤いマニキュアが塗られていた。

化粧が落ちちゃう。と、一人でぶつぶつと言いながら、雷が落ちてくる音がする大平原の中、ゆっくりと、平穏に向かって歩いていた。

「此処は一体、何処なんですか。」

「そうね、何処でもないんじゃない?」

投げやりに、叩きつける雨を頬に受けながらも飄々とそう答えたM・Mに、ちらりとこちらを向いた瞳が、なんとも浅黒く感じられてハルはふるり、と肌を震わせた。

そんな女の人に憧れたのかどうかは、考えないようにしている。

可哀そうな背中の傷は彼女が洗い落としてくれるのだろう。多分、きっと。

「お菓子、持ってきました。」

「あ、そう。そこ置いといて。」

こちらを見向きもせずに、ファッション雑誌を読む。何処で買って来たのか、アンティークの椅子はハルは今日はじめて見た。

夜に任務に出かけた帰りに買って来たのか。流行り廃れた服と、今はやりの服がごちゃまぜになった服の海の真ん中にぽつねんと、その椅子が存在した。

何処に置くべきかと視線を至る所へ向ける。ハルの記憶が正しければ、昨日までには小さな机があったはず。

飽きたのだろうか。椅子が入るから机を捨てたのだろうか。

「・・・しょーがないわね・・・」

小さく溜息を吐いて、今日はサーモンピンクのマニキュアを塗られている指先が、トレイの上に乗せられたクッキーを摘まんで放り投げるように口の中へ入っていった。

「どうでしょうか。」

「まあまあ。」

当初、彼女の口から石を噛んでいるような音がした時よりかは、音は柔らかくなって行った。クッキーはサクサク。これ何?甘い石?と、詰られた事もあったが合格点をもらえた。

ぺらり、つけづめの長い爪でよくページをめくられるなと、ぼう、と見ていると、宇宙から放つ星の淡い光のような色をした瞳がこちらを向いた。

「何ぼけっと突っ立ってんのよ。次はトイレ掃除しといて。あとついでに庭の雑草もどうにかしときなさいよ。」

卑下の視線を向けられてもハルはどうも思わなかった。ただ、庭に出て太陽の光を浴びることが出来ると思えば、それだけに愚直に喜びを覚えた。

「はい!分かりました!」

眼に見える冷たい鎖よりも、眼に見えない曖昧な鎖の方が、どれほど嬉しいか。外に出る事がどれだけ幸せな事か。

ハルの喜びように彼女の冷たい視線が刺すが、すぐに興味を失せたかのように雑誌に睫毛を伏せた。





M・Mの寝室とハルの寝室は同じ階にあった。元は何処かの貴族のものだったのか、建物の中にある家具はほとんどが細かい綺麗な細工を施されていた。埃をかぶっても尚、その輝きは衰えることなく静かに棺の中で眠る死体のようにそこにあった。

此処はM・Mがいつも使っている場所では無かったようだ。叩きつける雨の中、適当に見つけたのか、元から此処に住むと決めていたのか、初めて入ったかのような様子を見せていた。

森の中に鬱蒼とした、古びた洋館。

何個もある扉の中で、二人が使用するのは両手で足りる程度の部屋しか使わない。

二階の階段に一番近い場所の部屋がM・Mの寝室で、階段から一番遠い小さな部屋がハルの寝室、もとい貼るの部屋だった。

服の海に沈んだM・Mの部屋には窓が三つある。開放的な数だが、いかんせん。服で埋もれた床が見えない事によって清々しいとは言えない。

角部屋だからか、太陽が差し込まないからか、ハルの部屋は窓を開けていてもカビ臭い。この屋敷へ逃げてきたその日から、出来るだけ窓を開けているのに、一向に匂いは取れない。

その原因はハルの部屋の唯一の窓のすぐ真下に植えられている、大きな木のせいだろう。緑が茂ったその木によって遮られている。夏になればきっと、葉の匂いが部屋の中に充満するのではないかとハルは思う。けれど、夏までにこの場所に居るかどうかと聞かれれば、その答えはハルには分からない。M・Mにも分からないのかもしれない。

ラベンダーの香りよりも濃密で凝縮された空気は、どうにも居心地がよかった。

じゃり、と、この間買ってきて、今やっと初めて履いたのであろう綺麗な靴先が、ハルの灰色の影の前に現れた。

「私が読み終わったヤツならいいわよ。」

「あ、はい。」

反射的に返事をして受け取ると、それは先ほど読んでいたファッション雑誌だった。

「あと、一週間・・・いや、三日くらいしたら出るわよ。此処。」

「・・・はい。」

日の光が彼女の髪の毛を光らせているのに、その言葉で血の匂いを孕んだ風船がはじけたように、ハルの心は鬱蒼とした毒ガスが充満したように苦しくなった。

気まぐれに外に出て、気まぐれにハルの束縛と自由を与える。その様子はハルからみて、目標が無い様な生き方に見えた。床に落ちた服も、きっと彼女を満足させることは出来なかったのだろう。満足感を得られないから、此処に三浦ハルと言う女を、犬の放し飼いみたいにしているのかもしれない。

彼女には、ハルを好きに使う権力を兼ね備えていた。常に見張られている訳でもなく、命を手中に収めているようなそぶりも見せない。自由気ままな女王に付き合えと言う姿勢だけだ。

一般人からしたら、それだけで苦痛を強いられるのかもしれないが、いかんせん。彼女はマフィアのボスに想いを寄せて、そこから何の因果か、その男の部下に監禁させられていた。その事を思えば、綿のように何の存在もありはしなかった。

むしろ今は守られているのだと感じる事さえ出来るのだ。この要塞のような古びた屋敷で、食べ物を与え、何時でも逃げられる環境を無言で差し出している。

もしも。

人間には可能性と言う無限の空想と、奇跡と言う神様の気まぐれな風向きを期待する。もしも。ハルは額に滲んだ汗を手の甲で軽く拭い、手で光を遮りながら、太陽を見上げる。

もしも、ハルの背中の肩甲骨から、二つの翼が生えたら。

その翼で此処からあの空に何のためらいもなく、足枷も無く飛べたら、どうなるのだろうか。

猟奇的な所がある彼女の瞳が、ライフルスコープを覗いて、ハルが飛ぶか否かの躊躇いなど微塵も感じさせない程にあっけなく、引き金を引くかもしれない。

そんな事をぼんやりと思っていると、天気がいいので窓を開けていたらしい彼女の部屋から、話をしている声が漏れ落ちてきた。甘えるような声音ではない事から見て、オッドアイの人ではないのだろう。時折電話をしてくるみたいだったけれど、その内容がハルの事なのか、それとももっと違う事なのかは分からないけれど、電話だけでも繋がっていると思うとあまりいい気分はしない。

「うっさいわね。私が何してようと構わないでしょ?面倒くさい男は・・・アンタがめんどくさがってんじゃないわよ!」

弾む怒気の声に、相手は一体誰なんだろうと想像して、もう一度しゃがみこみ、自然の濃い緑色に手を伸ばして引き抜いた。
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ