鳩時計が午後2時を告げた。
リビングのソファに腰掛け、カミュは書類にペンを走らせていた。時計から鳩が出てくる度に一度ペンを止めて、わざわざ時間を目で確認する。
目で見なくとも鳩が告げてくれているのだから時間など本当は分かりきっているはずなのに…
それでも、カミュは時間を確かめずにはいられない。
何故なら、今日はカミュが誰よりも大切にしている少年〜氷河〜がはるばる日本からこの東シベリアの地へ来ることになっているからである。
この数ヶ月間と言うもの、お互い仕事だ学校だと忙しく、なかなか逢う機会が作れず、離れ離れの日々を過ごしてきた。
それだけに、氷河の高校の冬休みと言うのはカミュにとっても非常にありがたいものなのである。
2時30分。普段の数倍の速度で執務を終えると、カミュは台所へと立った。
木箱から昨日買っておいた野菜を取り出し、調理台に並べる。
玉葱やジャガイモの皮を手際よく剥き、まな板の上で軽快に切って行く。
寒い中を歩いて来る氷河に、温かなシチューでも・・と、そう思ったのだ。
肉や野菜を煮込んでいる間にも、鳩時計の音がリビングから聞こえてくる。
3時・・か。時計などない台所にも関わらず、思わず壁に目をやってしまう。
それだけ彼を待ち望んでしまっている自分に、カミュは心がくすぐったくなるのを感じた。
何故か笑みまでが零れそうになる。
鍋の中をレードルで掻き混ぜながら、昔まだ氷河が小さかった頃に歌ってやっていたフランスの子守歌を口ずさむ。
柔らかな湯気に乗って広がる優しい歌声は、室内を満たし、カミュはしばし郷愁に身を委ねた。
シチューが出来上がると、カミュは白のコートを羽織、読みかけの本を手に家の外に出た。
だいぶ日は傾きかけている。あと1時間もすれば、辺りは茜色に染まるだろう。
寒さなどどうと言うことはない。家の傍らに立っている針葉樹の幹にもたれかかり、本をしおりの所から開いて読み始める。
大地の雪の白さが少し眩しく思えたが、気にせず読み続ける。
半年前の出来事が脳裏によみがえった。
ギリシャの海で西瓜割りをしたこと−−。目隠しをした氷河は見事に西瓜を真っ二つに割ることができ、ひどくはしゃいでいたことが、まるで昨日のことのようにはっきりと思い出される。
ギリシャの太陽に照らされた彼のブロンドが、弾ける波しぶきよりもキラキラと輝いていて綺麗だった。
微かに・・とても小さく、鳩時計の音が聞こえる。また時を告げているのだ。
外なのに・・分かっているはずなのに、つい目を上げてしまう。
日は水平線ギリギリのところで金色の光を投げかけ、向こうの海までオレンジ色に染めている。
雪原と海と空の境が分からなくなるくらいに、温かなオレンジ色が一面に広がっていた。
そして太陽が海に吸い込まれるかのようにして沈みきってしまったその後は、藍色の空から純白の天使が舞い始めた。
「雪…か」
普段なら淋しく感じる瞬間も、今日は穏やかに流れ行く。
再び本に目を落とした。時折吹く冷たい木枯らしが、カミュの長い髪を持ち上げ過ぎて行く。
サラサラとなびく髪から粉雪が散り、白い地面へと落ちて行った。
そのとき。
サクサクサクッ。
駆けて来る足音に気づき顔を上げる。すると5メートルほど前に彼が居て…
静かに視線が交わった−−。
走ってきたからか、彼はほんの少し顔を上気させ、瞳を見開いてこちらを見ている。
やっと逢えた喜びと安堵感からカミュの顔に笑みが綻ぶ。
すると瞳に涙を貯めて、氷河が腕の中に飛び込んできた。
パサリ・・と大地に落ちる本。
抱きしめると、懐かしい温もりが伝わってきた。柔らかな猫つ毛が頬に心地良い…。
氷河が顔を上げた。互いに見つめ合い、笑みを交わし、どちらからともなく唇を重ねる。
冷たい唇…
けれど心は何よりも温かだった−−。
〜Fin〜