中・短編

□「終わり行く夏」
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「ねぇ、一体どこへ行くんだ?」


 渉が夕凪に追いついて尋ねると、彼は美術館だよと答え、シャツのポケットから二枚の入場券を取り出して渉へと見せた。


それは四日から一週間に渡り開催されていた印象派絵画展のチケットで、美術館の館長を勤めている父からもらったのだと彼はそう付け加えた。


夕凪の父親が美術館の館長だなんて全く知りもしなかった渉は、思わず驚嘆の声を漏らした。


「あの絵画展、是非行ってみたいと思っていたんだ。だけど、小遣いだけじゃとても足りなくてさ」


「渉の家って、お母さんと二人暮しだったっけ?」


「うん。父が亡くなってもう五年になる」


「そっか、五年……。今から五年後の君は、一体どんな風に成長してるんだろうね?」


そう独り言のように言って、雨で霞む景色よりももっと遠くを見つめる夕凪の横顔はどこか儚げで、何故かこのまま彼が消えてしまうのではないかと言う妙な不安感に駆られた渉は


「五年後か。君と同じ、東京の美大へ行ってるかもな」と不自然なくらい明るい笑顔で返す。けれど、それに対する彼からの返答はなく、渉は僅かな気まずさを覚えて瞳を伏せた。


 突然、夕凪が足を止め、渉の方へと顔を向ける。急いで渉も足を止め、彼と視線を合わせた。


聞えるのは傘を叩く雨音のみで、他には何の音もない。


風が吹き、夕凪の前髪を揺らした。頬に掛かった水滴が光っている。


「今度、海の絵を描いてくれないか? 僕の部屋に飾りたいんだ」


 藤色の傘の上でいくつもの雨雫が弾ける。


「いいけど、僕なんかが描くよりも、夕凪の方が上手いんじゃないのか?」


「君の描く海が見たいんだ」


「分かった。じゃぁ、この夏が終わるまでに描きあげるよ」


また一つ風が吹き、二人の前髪を揺らして通り過ぎる。夕凪の頬に光る雨雫が、涙のように見えた。


「ありがとう」


 夕凪が微笑む。何故だろう。彼の笑みはいつだってどこか哀しげで、その度に不安になる。儚げで翳りのある彼の微笑みには、繊細な硝子にも似た危うさを感じずにはいられない。


例え、また明日、と夕暮れの中 手を振って別れる、ただそれだけだとしても、もう次はないのではないかと言う不安感がいつだって心のどこかに存在していた。


 目前の夕凪は温和な笑みを湛えたまま、ゆっくりと前方へと向き直り歩み始める。再び、二人肩を並べて道を歩いた。



 いつもならば美術館へは最短距離で辿り着ける裏の細い路地を通るのだが、この日はどうしても大通りを歩きたいからと言う夕凪に従い、あえて遠回りをした。


 大通りは、買い物帰りの家族連れや老婦人達が行きかっていて、渉と夕凪も色とりどりの傘とすれ違った。


「どうして急に、大通りを歩きたいだなんて言ったんだ?」


 ショーウィンドウに映る傘の花を横目で追いながら渉が尋ねると


「別に。何となくだよ」


と何でもないように夕凪は答えた。


そして暫く歩んだ辺りで


「アイスキャンディーだ。食べて行かないか?」


そんな風に言う夕凪の視線の先には、アイスキャンディーの看板を軒先に掲げた小さな商店がある。


渉が頷くのを確認すると、夕凪は足早に商店の方へと歩んで行き、硝子戸を開けて店内へと入る。一足遅れて渉も足を踏み入れた。


狭い店内は僅かに蒸し暑く、古ぼけた木製の棚の上ではところどころ錆びかけた扇風機が、しきりに首を動かしていた。


その生温い風が何度も二人の頬を撫でては通り過ぎる中、店の奥から出てきた小柄な老婆が「いらっしゃい、どれにするかね?」と愛想良く尋ねてきた。


「じゃぁ僕はソーダで。渉は?」


「僕はメロンにしようかな」


二人の注文を聞き終えると、老婆は手早く冷凍陳列棚からアイスキャンディーを取り出し、水色の方を夕凪、黄緑の方を渉へと手渡してくれた。


二人は支払いを済ませて老婆に礼を言った後、一旦店の外へ出てから、軒下でアイスをかじった。


雨は宣告よりも強さを増し、低く垂れ込めた灰色の雲が上空を急速に流れて行く。軒を叩く雨音が、何となく寂しげだった。


「アイス食べるのなんて、もう随分と久しぶりだ」


そう瞳を細めて言う夕凪の隣でメロンアイスをかじりながら「久しぶりってどれくらい?」と遊び半分で渉が尋ねる。


すると彼は、そうだなと少し考えた後、数年ぶりかなと答えて渉と視線を合わせた。


 ゆっくりと水色が減って行き、やがて薄茶色の平たい棒だけが現れると、それに書いてあった文字を見て夕凪が嬉しそうに口元を綻ばせた。


「あたりだ。もう一本もらえる。渉にあげるよ。何がいい?」


「えっ? すごいな、あたったんだ? 僕なんて思い切りはずれなのに」


 夕凪の手の中の棒をしげしげと眺めながら渉が言う。


「せっかくあたったんだから、夕凪が食べるといいよ。アイスキャンディー食べるのなんて数年ぶりなんだろ?」


くすっと笑いを零しつつ言う渉へと夕凪は


「僕はもういいんだ。だから、もらってくれないか?」


そう返して商店の方へと視線を向けた。


そしてもう一度「本当にいいの?」と尋ねる渉に、夕凪が笑顔で頷く。


「じゃぁ、ありがたく。今度は柚子で」


はずれの棒を傍らのくずかごへと投げ入れて、渉も店内の陳列棚へと視線を向けた。


「よし。じゃぁ、ちょっと行って来る」


にこっと微笑み、あたりの棒を軽く振った後、夕凪は再び硝子戸の向こうへと入って行った。



 夕方、相変わらずの大雨の中帰宅した渉を、心配顔の母が玄関で出迎えた頃には、もうすっかり陽も暮れてしまっていた。


「随分と遅かったのね。裏の路地で土砂崩れがあったから、まさか渉が巻き込まれてるんじゃないかって、お母さんとっても心配してたのよ」


 和室の箪笥の中からバスタオルを取り出して渉へと手渡しながら、でも良かったわ無事で、とようやく安堵の笑みを浮かべて母 真紀子が言った。


 母は近所の総合病院に勤務する看護婦で、父が他界してからは女手一つで渉を育ててくれていた。


今日が日勤のため、早めに帰宅していた彼女は、帰宅するなりテレビで土砂崩れのニュースを目にし、それからは息子の安否が気がかりでならなかったのだと言う。


 土砂崩れの起きた時刻は十三時頃。それはちょうど渉達が美術館へと向かっていた頃の時間帯だった。


もしもあの時、普段通りに近道を通っていたら。きっと渉も夕凪も、ここには存在していなかったかもしれないのだ。


そう考えただけで、身体中の皮膚が泡立つような恐怖感に襲われ、渉は顔をこわばらせた。


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