夕方、俺が大学から帰宅してみると、マンションのどの部屋にもアリスの姿が見当たらなくなっていた。
奴が寝床として使用している和室の押し入れ、一人暮らしの割りに無駄に広すぎるリビング、そして大浴場に至るまで探し回ってみたもののやはり見当たらない。
ついでに俺のために割り当てられたロフト付きの洋室内も見回してみたが、当然あいつの姿などどこにも見つかる訳もなく−−
こんな時 人間と言うのは不思議なもんで、普段はそれほど気にも止めない人物であるにも関わらず、いざそれが居ないと妙に気にかかったりするものなのである。
夕焼けでオレンジ色に満たされた室内は整然としていて、悩みなど大してないはずの俺の心をも何となく物悲しい気分にさせた。
地上三十階のこの部屋は、暑くもなく寒くもなく、完璧なまでの空調設備によって温度管理されていた。
壁に掛けられた時計に目をやると、ゴールドの長針と短針は規則正しく時を刻み、五時三十分を告げている。
針は確かに動いているはずなのに、その音は全くと言って良い程耳に届かない。
それはさながら白地の円盤を滑る金糸のように、滑らかに、だが着実に時を刻み続けている。
刹那、急速に胸底から込み上げる寂寥感に壁の時計から視線を逸らすと、その感情は一気に体積を増し、俺の体中を満たした。
きつく目を閉じる。何も考えずにジーンズのポケットから一つの古ぼけた腕時計を掴んで引っ張り出す。
瞼を開き、手の中の時計を見つめる。
黒の革のバンドにこそ僅かな傷はあるものの、シルバーの文字盤を覆うクリスタルには傷一つなく、室内に満ちた薄暗いオレンジ色を反射して淡い光りを放っていた。
−−二時十五分。
何も変わらない。あの日のまま。
−−二時十五分。
兄さんが逝ったあの日、この時計もきっと死んでしまったのだろう。
時計屋へ持って行ったこともあったが、電池が切れている訳でも故障している訳でもないらしく、店の人も何故時計が止まってしまったのか全く持って理由が分からないと首を捻っていたものだった。
−−兄さん、俺、頑張ってるよ。
一人にも大分慣れたし。
孤独感に負けそうになった時、いつもこうして心の中で形見の時計に話しかけてみる。
そうすると、少しだけ気が軽くなる。
−−兄さん、ちゃんと母さんのこと守ってくれてるのかな…?
記憶の中の母さんはいつだって笑顔だったけれど、時折見せる翳りのある表情がとても悲しくて、俺はそのたんびに母さんを笑わせようと子供ながらに色々と手を尽くしたものだった。
わざと人気のお笑い芸人の真似をしてふざけてみたり、海で見つけた綺麗な貝殻をプレゼントしてみたり、時には作れもしないお菓子を作ってみたりもした。
母さんはそのつど花の咲いたような笑顔を見せてくれたけれど、それでもいつだって心は泣いているように思えた。
−−母さん、兄さんが一緒だから寂しくないよね?
俺はもうちょっとこっちで頑張るから、どうか二人で俺のこと見守ってて…。
時計から目を上げる。
「よしっ」
掛け声と共に心を切り替えた俺は、手にしていた腕時計を再びもとのポケットへと仕舞ってから部屋を出た。
長い廊下を抜けてリビングへと入り、大きな窓辺へと歩み寄る。
先程よりも更に濃さを増した茜色の空を仰いでからバルコニーに目をやると、さっき探した時には居なかったはずなのに、バルコニー脇のミニチュアガーデンに水をやるアリスの姿が目に入った。
敏感なアリスのことだ。俺がここに立つなりすぐに気づいていたのだろう。
その顔には穏やかな笑みが刻まれている。
「君も出ておいでよ。夕焼けが綺麗だよ」
数メートルの空間と窓ガラスを隔てても、よく通るアリスの声は難なく俺の耳に届いた。
俺は頷くこともせず窓をがらりと開け放つと、そこに置いてあった青い健康サンダルを履いてバルコニーに立った。
健康サンダル特有のボコボコが土踏まずに思い切りフィットして、俺はその痛みから僅かに顔をしかめる。
「何? 痛いの? 君、まだ若いのに」
水やりを終えたアリスが花壇の脇にジョウロを置きながら、唇の片方を持ち上げてくすっと笑う。
「なんだよ、痛いさ、悪いか!?」
「別に悪くなんてないけど、なんか君ってお年寄りみたいだよね」
クスッ。またしてもアリスが笑う。
「年寄りはどっちだよ。普段からこんなもん履いてるくせに」
「やだな、健康サンダルは身体にいいんだよ。あと青竹を踏むのも身体にいいんだ」
「げ、あんた何気に健康オタクだったりとかする訳?」
若干引き気味な俺を見て、アリスは笑顔のまま「別に」とさらりと返した。
シャパシャパ。バルコニーの右奥に設置された噴水がオレンジ色の雫を散らしている。輝く水晶の粒みたいでとても綺麗だ。
冷ややかな秋風が俺の頬を撫で、アリスの髪を揺らして通り過ぎた。
アリスの隣で、深い紫の花が揺れる。
天に向かってしなやかに伸びた数本の茎の先端には、秋風にゆったりと揺らめく青紫色の花びらが綻んでいる。
あれはリンドウだ。兄さんが好きだった花−−。
昔、家の花壇にもこれと同じ花があって、兄さんはいつも大切に世話をしてたっけ…。
愛情込めて育てれば、植物にもちゃんと気持ちは伝わるんだ。
水やりをする傍ら、兄さんはそんな風に笑顔で話してくれた。
その日も今日みたいな見事な夕焼け空で、兄さんとまだその頃八歳だった俺は、水やりが終わってからもまだ暫くの間庭に立って、オレンジジュースを零したみたいに鮮やかな大空を見上げていた−−。
「好きなの? リンドウ?」
「え?」
その声で自失から引き戻された俺は、それまで注視していた花から視線を逸らし、声の主であるアリスの方へと視線を移す。
リンドウと同じ色した瞳が、優しく微笑む。
「あぁ、好きって言うか…綺麗だなと思って」
まさか兄さんのことを思い出して感傷に浸ってたなんて答えられる訳もなく。とりあえずアリスには、ありきたりな言葉を返しておいた。