リビングへと通じるドアは開け放たれ、そこからニンニクを炒めたような何とも香ばしい香りが流れ出してくる。けれど良い香りではあったが、それはこのすがすがしい初秋の朝にはどうにも似つかわしくない気がして、俺は密かに眉根を寄せた。
「なぁんだ、来てたんなら早く座ってよ。せっかく作ったのに料理が冷めちゃうじゃない?」
ドアのところでぼんやりと立っていた俺に、キッチンから焼きたてのトーストとアイスティーをトレイに乗せてやってきたアリスがすかさず声を掛けて、立ち止まりもせずにスタスタと俺の前を通り過ぎた。
俺は「あ、あぁ…」と気のない返事を返すと、渋々アリスの歩んで行った方向へと重い足を進める。
リビングに入ると、先程の香ばしい匂いは一層強さを増し、起き抜けの俺の鼻腔を鋭く刺激した。
フワフワ。リビングの中央に敷かれた毛足の長いブルーのラグマットの上を歩いて行き、アリスの向い側の籐の椅子にどかっと腰を下ろす。
すると俺の目前のテーブルに置かれている真っ白な皿に盛られた、優に厚さ三センチはありそうな程のでっかいステーキと、その脇に盛られたポテトサラダだの蛸さんウィンナーだの目玉焼きだのが一斉に視界に飛び込んでくる。その朝食にしては見るからに蛋白質過剰なメニューに、俺はまだ何一つ口にしていないにも関わらず既に胸焼けがする思いだった。
「げっ!! 何これ!??」
「何これ? って…君、食べたことないの? ステーキ」
グラスに掛けていたレモンの薄切りをアイスティーに絞りながらアリスがひょうひょうと返す。
「いや、そんなの見りゃ分かる! 俺が言いたいのは、何でこんな朝っぱらからヘビーなメニューなんだよっ! ってことだ」
鼻息荒く言い放つ俺に、アリスはまたもひょうひょうとした口調で
「これから君は僕の専属血液提供者になるんだから、しっかり栄養摂っといてもらわないとね」とのたまった。
ぷつん、と俺の頭の中で何かが切れた。
「朝っぱらから、こんな重いもん食えるかぁ!!」
怒りに任せてテーブルを掴んで、向かいに座るアリスをにらみつける。
「あぁ、ちゃぶ台返し? 君は朝から元気だね。やっぱり若さかな?」
俺の怒号などお構いなしに、奴はそうあっさり言ってのけると、アイスティーの入ったグラスをストローでかき混ぜた。グラスの中で氷が回る。カランカラン。そのやけに澄み切った音が怒りで沸騰した俺の頭を更に沸き立たせた。
「だいたい何で、俺だけステーキであんたは胃に優しいトーストとアイスティーなんです!? いくら専属血液提供者だか何だか知んないけど、俺にだって選ぶ権利はあるはずだ!
ってか、専属血液提供者だって、アリスさん、あんたが勝手に決めたことじゃないか! 本当は俺には何の関係もないはずなのに…!」
一気にまくしたてた反動で、酸欠気味に陥った俺は、テーブルに両手を突いてぜーはーと肩で息をする。
「言いたいことはそれだけ?」
からかうように言って、アリスが瞳を細める。それからクスっと笑うと、爪の綺麗に整えられた掌を、テーブルに突いている俺の手にそっと重ねて
「ま、とりあえず落ち着こうよ。君だってこんな朝っぱらからそんなに怒ったりしたら疲れるでしょ?」と、まるで小さな子供でも宥めすかすみたいな優しげな声音で言う。
ちくしょ!! 俺はガキじゃねぇっつの!!
ドスっと大きな音をさせて椅子に腰掛けなおす。
それと入れ替わりに、アリスが椅子から立ち上がる。そしてサイドボードの隣にある白い小型冷蔵庫から牛乳を取り出してグラスに並々と注いだ。テーブルに戻ってきたアリスは、牛乳の入ったグラスを俺の前に置くと、再び椅子に腰を下ろす。
「まぁ、それでも飲んで落ち着いて。
彰君、多分カルシウムが不足してるからそんなにカリカリするんだよ」
笑顔で言いながらアリスがトーストをかじる。香ばしいバターの匂いが俺の鼻腔をもくすぐる。
「さ、早く食べて。それ美味しいよ。だって、松阪牛だからね」
くそっ!! このブルジョアめ! こいつには何を言っても通用しねぇ!
『暖簾に腕押し』 『糠に釘』
そんな諺が俺の脳裏を虚しく掠めた。
とりあえず目前にあった牛乳の入ったグラスを荒々しく引っ掴んで一気に飲み干す。するとアリスが「そっか、喉乾いてたんだね。もしかして二日酔い?」と、またも人の神経を逆撫でするような発言をしてくる。
「別に。俺、そんなに酒に弱くありませんから」
皿いっぱいに広がったでっかいステーキをフォークでぶっ差して、ナイフでガシガシ切り分けながら仏頂面決め込んで俺が答えると
「そう。それじゃ今度、君と僕、どちらが酒に強いか試してみようか?」とアリスは言っていたずらっぽく唇の端を持ち上げて見せた。
そんなの、ホストのあんたに俺が適う訳ないだろ!! そう思ったが、それをあっさり口にするのはあまりにも腹立たしく思えて、例え強がりであったとしても
「いいですよ。翌日、二日酔いで泣かないようにしてくださいね」とせめてもの悪態をつく。
クスっとまたアリスが笑う。その度に俺の神経はピリピリと逆撫でされ、不愉快なことこの上なかった。
ガツガツガツ。切り分けた肉を口へと放り込み、黙々と噛み砕く。味は意外と美味かったが、こいつと向き合っていると言うだけで、その美味しさも十分の一くらいまで激減している気がした。
「君さぁ、確かさっき妙なこと言ってたよね? 殺さないで…とか」
アリスがトーストの最後の一口を食べ終えて、そんなことを言ってきたので、俺が見た明け方の夢について詳細に話して聞かせると
「へぇ…蚊になった夢ねぇ…。だからさっきあんなにもキンチ○ール見ておびえてた訳か」
と納得したように言って楽しげに笑った。
そんなに笑わなくてもいいだろうに。俺は憮然としたまま再び分厚い肉を頬張る。そしてそれを飲み込んだ瞬間、俺の脳裏にふとした疑問が浮上した。
−−確か吸血鬼に血を吸われた人間も、また同じように吸血鬼になるって話を昔どこかで聞いたことがあったような…。
と言うことは、もしやもう俺も吸血鬼仲間!?
俺は俄かに焦燥と不安に駆られ、手元に視線を落としたまま無言で思考を巡らしていた。
「ん? どうかした?」
その声に俺がはっとして目を上げると、アリスがいぶかるような眼差しをこちらへと向けていた。
「あの…ちょっと聞いていいですか?」
「どうしたの? 急に改まったりして」
突然俺が真面目に切り出したもんだから、アリスは少し驚いたようにその紫の瞳を大きくした。
「吸血鬼に血を吸われた人間って、やっぱり同じように吸血鬼になっちゃうんですか?」
人がせっかく真剣に尋ねてるってのに、アリスときたら俺の言葉を聞くなり声を出して笑い出した。
「あはは、君、そんなこと気にしてたの? バカだな。そんなの迷信に決まってるのに」
ケタケタ笑う目前のヴァンパイアが憎らしくて、俺が奴をきつくにらみつけると、奴は「ごめんごめん、ちょっと笑いすぎた」と言ってアイスティーを一口飲んだ。
それからゆっくりと話し始める。
「ヴァンパイアに血を吸われたら、その人もヴァンパイアになるって言うのは、真っ赤な迷信。
だって考えてもごらんよ。僕らが血を吸う度に一々みんなヴァンパイアになってたら、それこそ地球上の全ての人間がヴァンパイアになっちゃって大変なことになるじゃない。
昔の妙な言い伝えが今でもそうやって根付いちゃってるみたいだけど、実際のところはそんなこと全くないのでご心配なく」
言い終わるとアリスは柔らかく微笑んで、アイスティーの最後の一口を口に含んだ。そして「ご馳走様。お先に」と言って皿とグラスをトレイに乗せて椅子から立ち上がる。
俺は何も答えずに蛸さんウィンナーをがっついていた。
数歩歩んだ辺りで「あ」と何事か思い出したと言うようにアリスが肩越しに俺を見やる。俺は相変わらず大量に盛られた蛸さんを頬張りながら奴と目を合わせた。
「食器はざっと水洗いしてから食洗機に入れておいて。僕はこれから昼まで寝るから」
それだけ付け加えると、アリスは再びキッチンへと向かって歩き出した。俺は奴の背に「はーい」と何とも気乗りしない返事を返して、黄身だけ残った今ではもう目玉焼きとも呼べないそれをフォークでぶっ刺して口へと放り込んだ。