その時俺は無性に腹が減っていた。何故かは分からないが、やたらと腹が減って仕方がなかったのである。
とにかく今はこの空腹をなんとかして満たさなければ! そう思った俺は、どこかも分からないその部屋の隅々まで頭と視線を最大限に動かして見回してみる。
そこは、ざっと二十畳はありそうな程の洋室で、毛足の長い淡いブルーのラグマットの上にはいかにも高級そうな猫足のテーブルと、それを挟むようにして置かれた籐の椅子が目に入った。そしてその向こう側、白い壁を背にして木製のラックに鎮座する五十インチ程もありそうなプラズマテレビが存在を誇示している。
向かって左側の壁には、濃い紫色の花をいくつか咲かせた植物の絵が、これまた立派な額に収められ飾られてある。
−−この部屋…確かどこかで見たような…?
そんな思いが脳裏を掠めたが、激しい空腹感には勝てない。再び食料はないものかと辺りを見回す。
けれど、周囲をどれだけ見回そうとも、俺の求めていた食料などどこにも見当たらなかった。
グルグルと首を動かしている際、時折視界の隅にチラチラと高速でうごめく薄汚れた黒い羽のような物が見えた気がしたけれど、とりあえず気にしないことにして、俺は更に食料を探すべくその部屋を出ようと身体の向きを変えた。向こうに茶色のドアが見える。ここから出ればきっと何か食物に出会えるはずだ。
妙な確信にも似た思いに突き動かされるままに、俺はドアへと向かう。あぁ、やはり歩かなくて良いと言うのは素晴らしい! 実に楽だ。
−−おや?? 俺っていつから空飛べるようになったんだっけ??
ふとそんな疑問が脳裏に浮かび、俺は何気なく自分の背に目をやる。薄汚れた黒い羽が高速で羽ばたき、それが激しい高音を立てていた。
ブーーーン!!
−−これはかなりの周波数だ! もしかしたら俺、すんげぇご近所迷惑になってるんじゃないか!?
そんなことを心配しながらも、先程よりも一層増した空腹感を耐えることはできず、俺はドアノブに手を掛けた。
カチャリ。ドアは案外あっさりと開き、その向こうには闇に覆われた広い廊下が続いている。そして廊下の一番突き当たりのドアの隙間から、柔らかな灯りが漏れているのを見てとると、俺は勢いよく部屋から飛び出し、おそらくはご近所迷惑であろう己の羽音のことなどすっかり忘れて、灯り目掛けて一目散に空を翔けた。
向こうの部屋からは何とも美味しそうな香りが漂い、今や全身胃袋と化した俺のことを甘く誘惑する。
ドアはもうすぐそこに迫っていた。もうすぐだ。やっと、やっと食いもんにありつける!
反射的にドアノブまでの距離を目測する。すっと右手を伸ばすと、ひんやりとした金属の感覚が掌に伝わった。
ドアノブを回し、一気に室内へと飛び込む。
スタンドの灯りの中、ベッドの上で本を読んでいた男がこちらへと顔を向ける。視線が交わる。
−−艶のある茶の髪にアメジストの瞳−−アリス!!
えぇい!! この際誰だって良い!!
俺は腹が減ってんだよ!! 猫だろうが犬だろうが、不思議の国のアリスだろうが、この空腹を満たしてくれるのなら何だって構いはしない!
俺は欲望のままに、アリスの首筋へと頭から突進して行く。すると奴は、その綺麗なアメジストを細めてにこりと微笑んだ。
とろけるように柔らかく、優しげな微笑。けれど、俺にはその笑みが悪魔の微笑みのように恐ろしく映った。
アリスが枕元のテーブルへと手を伸ばす。奴が手に取ったのは、二重センチ程の金属製のスプレー缶だった。
瞬間、俺の脳内に緊急警報がけたたましく鳴り響き始める。けれど、欲望のままに空を切る俺の羽の勢いはもう止まらない。
満面の笑顔のアリスが、スプレー缶を俺へと構える。
−−キンチ○ール!!
「蚊の分際で、この僕の血を吸おうなんて一億年早いよ」
声音は蜂蜜のように甘かったけれど、その穏やかな笑みは地獄の果てを目にするよりも恐ろしかった。
シューーーッ!!
噴射された霧に包まれ、俺は激しくむせた。苦しい…目が…喉が痛い!!
身体の自由がきかなくなり、無惨にも重力のままにフロアへとまっ逆さまに落ちて行く。
−−いやだ! こんな死に方!! いやだぁ−−!!