拭っても拭っても、涙は止まらない。それどころか、揺らぐ視界に映り込む絨毯に散らばった花びらが、余計に涙を助長させた。
何がそんなにも悲しいのか。自分でも訳が分からず途方に暮れ、彰は力なくその場にしゃがみ込んだ。それでも涙は止まることなく、頬を伝い落ちて行く。
花びらを拾い上げると、いっそ嗚咽が漏れた。誰かの名を呼びたい気がするのに、その誰かが分からない。言葉にならない声は悲しげに、切なげに、冷えた室内に響く。
こんなに心の奥底から泣いたのは、一体いつ以来のことだろう。ちょうど母と兄を失ったときも、こんな風に涙が溢れて止められなかったことを覚えている。あのときと同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上の悲愴感が胸中に渦巻き、彰を苦しめた。
ただあのときと違うのは、悲しみの理由が分からないということだ。家族を失う以上に悲しいと思えることなどそうそうあるはずがない。ならば何故自分はこんなにも号泣しているのか。
何とか気持ちを切り替えようと顔を上げ掛けたとき、携帯電話の着信音が鳴った。けれど昨晩、就寝前に自ら置いただろう場所が何故か分からず、当惑しつつ周囲を見回せば、壁際の机の上に見慣れた色があるのに気が付いた。朝の陽光を反射し、メタリックブルーに光っている。
急いで机に向かうと、携帯電話を手に取った。背面ディスプレーには、親友の名が表示されている。
「……はい」
パジャマの袖で少し乱暴に涙を拭い、応答し鼻をすすった。
「今坂……だよな? どうした? なんか声、ちょっと違うみたいだけど」
電話の向こうの親友−−三石栄太−−の声が明らかに心配の色を帯びたのに気付き、彰は慌てて明るい声を出そうと努める。
「いやあ、ちょっと風邪引いちゃったみたいでさあ。やっぱ昨日、毛布蹴飛ばしてたのがまずかったのかなあ」
あははと作り笑いする彰の瞳から、すっと涙が尾を引いて落ちた。
「それ、笑い事じゃないだろ? で? 大丈夫なのか、風邪は」
「ああ、ぜんぜん大したことないんだって」
「ほんとか? 飯は? ちゃんと食ってるんだろうな?」
「ああ、ちゃんと食べてるって」
「何なら、俺、何か買ってくけど」
「やだなあ、三石ってば。意外と心配性なんだな」
まるで、あの人みたいだ。何気なくそう考えてから、あの人って誰だっけ……? と必死に記憶を辿る。けれど当然のごとく、どんなに考えてみたところで思い当たるはずもなく。ただただ、何一つ分からないのに再びはらはらと涙だけが零れた。
「……坂? 今坂、おい、大丈夫か?」
気遣わしげな親友の声に、はっと我に返る。陰鬱さを振り払うように首を振ると、目尻に溜まった滴が散った。勢いよく鼻をすすり、普段の自分を取り戻さなくてはと意気込み、応対する。
「あ、ごめんごめん。なんか鼻水垂れちゃって」
最初の言葉を発する際、声が震えてしまわないか心配だったが、何とか普通に答えることができ胸を撫で下ろす。
「やっぱ風邪、ひどいのか?」
「いやいや、だからさっきも言った通り大したことないんだって。単なる鼻風邪だよ」
「そうか? でも、さすがに出掛けるのは無理、だよな?」
「え? どこに?」
「柚木達から花見に誘われたんだよ。もちろん、今坂も一緒にって」
ああ、と納得し、窓の方へと目を向ける。散りかけてはいるが、まだ花は残っている。今日は天気もいいし、最後の花見をする人もきっと多いことだろう。
「行くよ、俺」
窓から視線を逸らし、彰は答えた。外に出て気の合う仲間達と話したりすれば、きっとこの正体不明の抑鬱状態からも抜け出せるに違いない、そう考えたからだ。
「でも、風邪は? 本当に平気なのか?」
「ああ、どうってことないって。それで、何時にどこで待ち合わせ?」
携帯電話を片手に、三石の言う待ち合わせ時間と場所を手早くメモ帳に書き記す。待ち合わせの場所にカフェ・サフィールの名が出た瞬間、何か心に引っかかるものを覚えたが、よく大学の帰りに友人達と寄る喫茶店という以外、それ以上思い当たる点はなく、気のせいかとメモ帳を閉じた。
「了解。それじゃ、サフィールで」
「案外冷えるから、ちゃんと厚着して来いよな」
「へーい、分かりました」
「あっ、あとちゃんと薬も飲んでくるんだぞ」
「三石、心配しすぎ! 俺、元気だけが取り柄なんだから、そんな心配しなくたって大丈夫だって言ってんのに」
快活に笑い飛ばす。けれど彰がどんなに懸命に明るく振る舞っても、電話の向こうの親友が不安を拭い去ることはついぞなかった。