長編

□「Amethyst Eyes」
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【偽りの約束】


 のどかな午後だった。漫画を読むのにもすっかり飽きた彰は、ソファでアリスの膝を枕に、のんびりと寝転がっていた。アリスの仕事の関係上、こんな風に互いの休日が重なることは珍しく、普段あまり長時間共に過ごすことができないと言うこともあって、昨夜彼が帰宅以来ほとんど片時も離れず現在に至っている。


 しかし、こうもくっついていては、さすがの彰も食傷気味になってくると言うものである。無論、彼と二人っきりで過ごすのは嬉しいし、こんなにも長い時間一緒にいられるのはめったにないことなので感謝もしている。ただ一つ挙げるなら、このまま幸福慣れしてしまうのではないかと、彰はそれが少しだけ怖かった。


 横目でアリスを窺うが、先刻と寸分変わらぬ分厚い医学書が陰を落とすばかりで、そのため彼の表情を知ることができない。彼はそんな難しい書物に目を通しながらも、時々思い出したかのように彰の頬や髪に手を伸ばしてきた。慈しむように撫で、長い指に黒髪を絡めてはまた撫で、暫くすると波が引くみたいに静かに離れて行く。まるで彰と言う存在を肌で確かめようとでもするように、それは何度も、何度も繰り返された。その度に彰は、自分と彼との間を阻む分厚い医学書が無性に疎ましく思え、背表紙に孔が開くのではないかと言うほど睨みつけた。


 そんな彰の気持ちに気付いているのかいないのか、アリスは未だ口を噤んだまま本を読み続けている。凪のように穏やかな空気を纏い、常に側にいた。離れることは拒むが、だからと言って側にいる彰のことを束縛するのでもなく、極めて当たり前のように寄り添う彼の存在は、まさしく透明な大気のようだった。


 彼の温もりが心地よく彰が瞼を閉じていると、再び手が伸びてきてそっと頬に触れた。


「彰……寝ちゃった?」


 そう問いかける彼の声音はいつもと変わらず穏やかだった。彰はゆっくりと瞼を持ち上げ、心持ち彼の方へと顔を向けた。と同時にアリスが手にしていた本を閉じ、無造作に床へと放る。医学書はばさり、と重々しい音を立ててラグの上に着地した。


「もう読まないのか?」


「うん、飽きた」


 そう返して、アリスがにこやかに笑った。医学書のせいで彼の表情が分からず忌々しく思っていた彰としては、彼の興味の対象が再び自分に戻ってきてくれたのは好ましいことだが、唐突にそんな笑顔を向けられてはどうにもおもはゆくて目を合わせていられない。


「そっか、飽きたのか」


 言ってぎこちなく瞳を逸らせば、長い指が前髪に触れて、そのまま優しく梳き始める。彼の手が動く度、仄かなアイリスの香りが鼻先を掠め、彰の心は安堵で満たされた。


「医学書って面白いのか?」


「ぜんぜん。今更、弁形成術についておさらいしたって別に楽しくも何ともないし」


 専門的なことを言われても全く理解不能な彰は、ただ首を傾げる他なかった。


「だったら何で読んでたんだよ」


「読みながら、君を見てたんだ」


「何!?」


 アリスの言葉に、彰は驚いて瞳を見開いた。


「だって、何もせず見つめてると彰、逃げようとするだろ? だからあれはカムフラージュ。それにしても可愛かったなあ。彰ってば、すんごい目つきで本睨みつけてるんだもん。表紙が破れるかと思ったよ。そんなに邪魔だった?」


「こっ、この悪趣味野郎!」


 彰は耳まで真っ赤に染めてつっかかると、すぐさま起き上がろうとした。しかしアリスの手によって肩を掴まれ、たやすく阻止されてしまう。大して力がこめられているようにも思えないしなやかな指は、しっかりと彰の肩を捕らえ、多少身じろぎした程度ではびくともしない。


「愛してる……だから、逃げないで」


 真摯な瞳で見つめられると動けなくなる。


「話……逸らすなんて、ずるいぞ」


「離したくないんだ、彰を」


 そのまま唇を塞がれ、彰は瞳を閉じた。そろそろとアリスの首に腕を回せば、口付けは自然と深いものへと移行する。互いの舌を絡め合い、唇を求め合った。


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