長編

□「Amethyst Eyes」
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【温かな記憶】 *


 新年を迎え、一月も半ばを過ぎたある日の昼下がり。その日珍しく休暇を取っていたアリスは、大学時代からの親友である孝彦の暮らすマンションを訪ねるべく歩を進めていた。


 頭上には雲一つない青空が広がり、穏やかな陽光が歩道脇の植え込みや建造物を眩しく照らし出している。中央に青いラインの引かれた観光バスが、続けざまに三台彼を追い越して行った。一際濃い排気ガスの臭いが辺り一面に広がる。


 赤信号のため、暫し車の往来の途切れた隙に響いた鳥達のさえずりに視線を動かしてみると、数メートル先の煉瓦色したマンションのエントランス脇で、杉の木の枝に下げられた蜜柑の果肉をついばむ三羽の目白の姿が目に入った。親子だろうか。少しばかり小さめの一羽を守るように寄り添う二羽の目白。三羽ともきちんと枝に止まり、仲良く交互にたっぷりと蜜を含んだ果肉をついばみ合っている。


 時折、三羽それぞれにさえずる姿は、あたかも親子の談笑する姿のようにさえ見えた。そんな愛らしい三羽の姿に思わず足を止め、ほんの一時 和やかな風景に見とれる。こうして眺めていると、自分の立っているこの周辺だけ、まるで緩やかな時の中にでも存在しているかのような不思議な気分になった。


 信号が青へと変わったのだろう。再び背後から響き始めた轟音に、アリスははっとして進行方向へと向き直る。ゆったりとした歩調で歩み出しながらもう一度だけ煉瓦色のマンションを見やると、ちょうど先ほどの三羽が杉の木の枝から次々と飛び立って行くのが見えた。


 マンションに隣接された公園の時計は、午後十二時五十分を指し示している。


 孝彦、待ちくたびれてるかもしれないな。


 少しばかり時間にルーズな自分とは異なり、いつも生真面目な親友の姿を思い描くと、真っ直ぐにこちらを見据える時計を横目に歩む速度を上げた。



 親友の孝彦から電話があったのは、今から三日前、冷たい雨の降りしきる深夜のことだった。


 その夜は何となく寝付けず、ベッドで穏やかな寝息をたてる彰の傍ら、布団に入った体勢のまま読みかけの本の続きに目を走らせていた。枕元の携帯電話が震動したのはその時のことである。


 こんな真夜中に遠慮なしに電話を鳴らす人物と言えば、思い当たるのは一人しかいない。よって今回も特別驚くこともなく携帯電話を手に取った。


 久瀬孝彦−−着信を告げるブルーのランプの明滅する下、背面ディスプレイに表示された友人の名に、やっぱりな、と口元に僅かな苦笑が浮かぶ。この時間に掛けてくると言うことは、恐らくは当直日なのだろう。大方、急患の処置でも終わり、一息ついているのかもしれない。


 そんなことを思いながら携帯電話を開き、通話ボタンを押した。


「もしもし」


「あぁ、すまないな、こんな真夜中に」


 彼の第一声は、そんな申し訳なさそうな色を多分に含んでいた。


「気にすることないよ。まだ起きてたから」


 気さくに返すと


「そっか」


 その言葉に続き、安堵の溜め息が電話越しに届いた。


「何? 今夜は当直?」


「いや。家からだ」


「珍しいね。君が深夜に電話してくる時は、たいてい当直日なのに」


「そうだったか?」


「そうだよ」


「でも、別にわざとじゃないからな」


「分かってるって」


 小声でくすくすと笑い合う。


 隣で眠る彰が寝返りを打ったので、もしや起こしてしまったのではないかと、更に声を潜めて言葉を続ける。


「で? 今日はどうかした?」


「あぁ……」


 僅かな逡巡の後、ちょっとお前の声が聞きたくなってな、と孝彦が応えた。


 その刹那 アリスの脳裏に、今より一月半ほど前、彼の部屋で起きた出来事が一挙によみがえった。あの日彼から告白されたことが、まるで昨日のことのように鮮明な映像となって瞼の裏側に広がった。


−−「俺なら、お前にそんな顔は絶対にさせたりしない! アリス…お前が一体誰のことを想っているのかは知らないが、俺ならばお前にそんな辛い思いは絶対にさせない! ……好きだ、アリス。ずっと前から俺は、お前のことだけを想い続けてきた」


−−こんな自分のことを、孝彦は心から好きだと言ってくれた。それなのに多忙に託けて、未だきちんとした応えを彼に話せていない。はっきりとした意志を示した時、これまで築き上げてきた友情が徐々に崩壊して行くような気がして、どうしてもその一歩が踏み出せなかったのである。しかし、ずっとこのままと言う訳には行かないのだ。自分には彰と言う、心に決めた人が側に居るのだから。


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