「馨、入るよ」
脱衣所から一応声を掛けた後、光は大きなガラス戸を開けた。
−−瞬間、目前に広がる光景に思わず息を呑む。
どうしたことか無数のシャボン玉が、天井に設置されたファンの起こす空気の流れに乗って、広いバスルームの空間を緩やかに移動しつつフワフワと漂っている。白熱灯の光を受けたそれらは、七色の光をまとって、光の周囲をも取り巻きキラキラと浮遊した。
「あぁ光、遅かったね」
シャボン玉の漂う湯気の向こうで、馨が湯船に身を浸したまま顔だけこちらへと向けて言った。
「どうしたんだ? このシャボン玉!」
言いながら湯船の方へと歩いて行く途中、光の頬の辺りでパチンと一つ泡の宝石が弾けた。
「昔よく二人で、シャボン玉作って遊んだなと思って。ほら、こうしてさ」
笑顔で言うと馨は、バブルバスの湯に浸していた両手を水面から持ち上げ、自分の顔の前で親指と人差し指を合わせて輪を作って見せた。
輪の中にはシャボンの膜が張っていて、その向こうの馨の瞳が無邪気に笑みの形を刻む。ふーっと彼が息を吹き込むと、膜は七色のシャボン玉へと姿を変え、ふわりと中に舞い上がった。
「でもさ、光はヘタッピだから、なかなか上手く作れなかったよね?」
懐かしそうに笑いを零す馨の頬や髪の上で七色の光がパチン、パチン、と弾むように弾けて散った。
キラキラキラキラ。無数のシャボン玉に囲まれて微笑む弟の姿が、これまでにない程美麗に見えて、光は思わず見とれてしまう。
双子だから同じ顔のはずなのに、時折 弟は別人ではないかと思うくらい美しい笑顔を見せることがある。
「僕だって、今はシャボン玉くらい簡単に作れるさ!」
元来負けず嫌いな性格が顔を覗かせた光は、バブルバスの湯船に両手を突っ込んで取り出した後、馨と同じ要領で、指で作った輪の中にふっと息を吹き込んだ。
けれど、息の吹き込み方が強かったせいか、シャボンの膜は球体を成す前に透明な飛まつを散らして虚しく消え去った。
「やっぱ、今でもヘタッピじゃん」
クスクスと楽しげに笑う弟がにくらしくて、でもなんだか可愛くも思えて。光はすねた振りして「もういいから、さっさと背中流してよ」と湯船から馨の手を引いて半ば無理やり上がらせた。
「えぇっ? 今夜は僕が先に洗ってもらう番のはずだろ?」
「いいの! 兄の権限って奴!」
「なんだよ、それ? 訳わかんないよ」
「いいから、さっさと洗えって」
「はいはい」
タオルにボディーソープを付けて光の背を擦る。いまだバスルーム内にはたくさんのシャボン玉が浮遊していて、二人の周囲をファンの作り出す空気の流れに乗ってゆっくりと移動して行く。
時折耳元や首筋で弾けるシャボン玉が、ちょっとくすぐったくて、その度に光も馨も僅かに首をすくめた。
光の背の泡を流そうとシャワーを手にした馨が思い出したかのようにクスっと笑う。
「なんだよ? 何がおかしいんだよ?」
相変わらずふくれっ面した光が、肩越しに馨を見やる。馨は「あ、ごめんごめん」と謝ってから、シャワーの湯を光の背に掛けた。
「光って、昔っから負けず嫌いだよね」
「なんだよ、その言い方! 進歩のない奴とでも言いたい訳?」
「いや、昔とぜんぜん変わってなくて…可愛い、と思って」
「は?! ば、ばっかじゃないの? いきなり何言ってんだよ」
馨の方こそ、数倍可愛いくせに。
思わず口を突きそうになる言葉を呑みこんで、光は視線を泳がせた。頬が妙に熱っぽい。冷房の温度設定、壊れてるんじゃないかと思うくらいに顔が暑かった。
「馨?」
「えっ?」
突然、笑顔のままの弟の手を取って引き寄せると、光はその唇に自分の唇を軽く触れさせた。
唇を離すと、瞠目したままその場に立ち尽くす馨の姿。
「さてっと、暑くなってきたから、露天風呂行くわ」
唇の端を持ち上げて笑うと、光はスタスタと奥の出口へと向かって歩み出す。
「ちょっ! ひかっ!!」
目をしばたかせながら慌てて後を追う馨の側で、いくつものシャボン玉が弾けて光のシャワーを散らせる。
立て続けに浴室を出て行った二人の後を追いかけるように、たくさんのシャボン玉がガラス戸をすり抜け、蒼白な月光を受けてさながら幻想的に舞った。
〜Fin〜