中・短編

□「終わり行く夏」
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 夕暮れだと言うのに、8月末の風はまだまだ蒸し暑い。


ただでさえ今年の夏は猛暑で、庭の草花も、たった1日水遣りを忘れるだけで元気を 無くすと言うのに、今日の暑さはいつにも増して厳しかった。


 母に頼まれ、先刻から庭 の鉢植えに水遣りをしていた渉(ワタル)の額にもジットリと汗がにじみ、残暑の厳しさを物語る。


 青いバケツに並々と注がれた温い水を、金属製の柄杓(ヒシャク)で掬って鉢の中や葉などにゆっくりと掛けて行く。


朝は元気よく開いていた朝顔の花も、今ではすっかり花びらを閉じ、その淡紫色を内に秘め眠りに投じている。


バケツの中で、橙(ダイダイ)と薄紅を混ぜたような夕焼け空が揺れる。生暖かい風が吹いて、庭の木々をざわめかせた。


その西から東へと流れるさざなみのような音に何気なく門の方を見やれば、いつの間に来ていたのか、夕凪(ユウナギ)がこちらを窺い佇んでいるのだった。


「やぁ」


 柄杓をバケツの中に入れ、渉が片手を上げて会釈すると、夕凪も柔和な笑みを返してくる。


「どうかした? もう家に帰ってるとばかり思ってたから」


言いながら夕凪のもとまで足早に歩む。


彼はその問いには答えず、静かに微笑んで、海へ行こうと言った。


 この街は海辺に位置しているので、容易に美しい砂浜へも行くことができる。それはもちろん渉の家からでも例外ではなく、十五分も歩けば、綺麗に整備された真っ白な砂浜と透き通る海を望むことができた。


 二人で手早く水遣りを済ませて、浜まで続く道のりを歩み始める。


汗で額に貼り付いた前髪を払いのけ天(そら)を仰ぎ見れば、西の残照は今や碧藍(ヘキラン)に飲まれようとしていた。


街路灯が数度の明滅を繰り返した後、ほの白い光を灯す。それは隣を歩む夕凪の横顔をくっきりと浮かび上がらせた。


長い睫に縁取られた茶の瞳は、ただ真直ぐに向けられ、彼が今何を考えているのか、その表情から窺い知ることはできない。


何故夕凪は、このような夕暮れ時に海へ行こうなどと誘ってきたのか。元より掴み所のない彼なので、今回もただ単に突然思いついただけなのかもしれないが、今日はもう既に昼間にも山へ出かけたばかりなのだ。


意外と体力には自信のあった渉とて今日の猛暑にはまいっているのだから、彼より華奢な夕凪が疲れていないはずがないと渉自身そう踏んでいたのだが、その予想は全く持って外れていた。


 夕方、空き地の六本杉の前で別れた時と同じく、空色の半袖シャツに黒のハーフパンツと言う出で立ちで歩く夕凪は、その細い身体のどこにそれほどまでの体力が余っているのかと関心するほどに軽快な足取りで歩を進めて行く。


「疲れてないのか? あの山、結構な急斜面だったのに」


 いぶかしげな瞳を向けて問う渉に


「別に」と夕凪は返し、それから、楽しさの方が上回ってて、疲れを感じる暇がなかったのかも、とその端麗な顔に笑みを咲かせた。



 突き当りを右に折れ、浅い石段を五十段ほど下ればもうそこは一面の砂浜で、すっかり群青に染まった空と碧海の境界線からは金の満月が顔を覗かせつつあった。


「渉、月だ!」


 とたんに笑顔を輝かせると、夕凪は浜を駆けて行き、波打ち際で履いていた茶色のサンダルを脱ぎ捨て、波に両足を浸した。


渉も彼に倣い裸足で彼の隣に立つ。


夜の波はことのほか素足に心地良く、足首を撫でる細かい砂ごと、ゆっくり押しては返す。


 巨大な満月が二人を照らしながら、徐々に上空へと吸い込まれて行く。


それはこれまでに目にしたことのないほどに壮観で、思わず瞬きさえ忘れて見入った。


ふと何気なく夕凪へと視線を向ければ、彼はその透き通った瞳に今見た全てを焼き付けるかのごとく、昇り行く満月を身動き一つせず見つめているのだった。


 暫くの後、綺麗だったねと夕凪が嬉しそうに瞳を細めた。


月明かりに照らされた彼の肌は陶磁器のように滑らかで白く、その美麗さはどこか精巧な作り物めいて見え、渉の心に得体の知れぬ不安感を生ませた。


 渉が夕凪と初めて出会ったのは、八月の上旬、夏期講習が終わった日の午後のことだった。


通学路の途中にある空き地の木陰で一休みしていた渉が、夏風にざわめく六本杉の方へと何気なく目をやったところに彼はいたのである。


 背丈は渉よりも高めだったが、その体つきは驚くほどに華奢で、栗色の髪と目鼻立ちの整った色白の顔が大変印象深い少年だった。


真っ白なシャツに濃紺のジーンズ姿のその少年は、淡く微笑して渉の隣へと腰を降ろした。


 見たところ制服を着ていないところからも、彼が同じ中学ではないことくらいは容易に推測できたし、とりあえず渉は自分の名だけ名乗っておいた。


 彼はとても不思議な少年だった。夕凪と名乗った以外特に何かを話すわけではなかったが、彼の隣に座っているだけで渉は不思議な安堵感に包まれた。


渉自身、初対面の人間にこのような親しみを覚えるのは初めてのことで、正直戸惑ってしまった。


しかしそれは最初だけで、一度口を開いてしまうと、驚くほど互いの趣味や価値観の一致に気づくこととなった。


 二人とも絵を描くことが好きであることや、海や山など自然の中にいるとすごく落ち着くと言うこと。他にも理数系よりは文系であることまで、一致する点は数知れなかった。


 それからは毎日のように夕凪と時を過ごした。一緒に山や海へも行ったし、夜などは川原で花火もした。線香花火が落ちる瞬間に見せた夕凪の哀しげな表情が、今でも心に焼き付いて離れない。



 八月十日。その日は珍しく土砂降りの雨で、暇を持て余していた渉は、縁側から庭をぼんやりと眺めながら大きな溜息を落とした。


突風が雨粒をさらい庭の木々を激しく揺らす。


 視線を門の方へと滑らせた時、藤色の傘を差して佇む夕凪を見つけた。彼は渉と目が合うと静かに微笑し、こっちへ来ないかと手招きをする。もちろん声は雨音にかき消され届くことはなかったが、彼の唇は確かにそう動いた。


渉は首を縦に振った後、急いで玄関へと向い、スニーカーを履き、傘縦から黒い傘を手にして戸を開けた。


「それじゃぁ行こうか」


 言うが早いか、夕凪は渉へと背を向けて歩き出す。渉も慌てて彼の後を追った。


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