ガバッ!!
飛び起きて肩で息をつく。いまだ鼓動はうるさく鳴り響き、汗まみれの肌にパジャマ代わりのTシャツがじっとりと貼り付いている。
「ゆ…め……」
実にいやな夢を見たものである。俺は先程見た一連の出来事を思い返して、ぶるっと大きく一つ身震いすると布団から立ち上がる。そして乾ききった喉を潤すため、台所へ行って水でも飲もうと足を一歩踏み出した。
けれど、そこにあるはずの床の感触はどこにもなく−−ここがアリスのマンションの一室に設置されたロフトだと言う事実を今更ながらに思い出したところで時既に遅く−−。
バランスを崩した俺に待っていたのは、約二メートル下に控えたフローリングと仲良くなること、ただそれだけだった。
ドッシーン!!
「ってぇ!!」
派手に転落したため、これほどまでにないというくらい尻を床に打ち付けた俺が、必死に痛みと戦っているところへ部屋のドアがガチャっと開き、ヴァンパイア アリスが姿を現した。
「おはよ。朝っぱらから元気だね」
言って涼しげな笑みを浮かべる彼の手には、何故だか見覚えのあるスプレー缶が握られている。そして、その缶には紛れもなく『キンチ○ール』の文字が!!
「うわぁぁぁぁ!! ちょっ、やめ! やめてっ!! 助けてっ!! こここ、殺さないでぇっ!!!」
咄嗟に先程のリアルな夢のことを思い出し動転した俺は、激しく狼狽しつつそれだけ早口で叫ぶと慌てて立ち上がり後ずさった。
「助けて、って…何?」
いぶかるような目で俺を見ると、アリスはこちらへと向かって歩んでくる。
「やだっ!! 来んなってば!! やめっ!!」
ゴンッ!!
急いで後ろへ下がったは良いものの、ロフトに備え付けてあった梯子で後頭部を強打してしまった俺は、痛む頭を片手で抑えながらその場に力なくへなへなと座り込んだ。
「あっ、いたいた!」
頭の痛みが少し治まったところで、アリスのそんな声が聞こえてくる。恐る恐る目を開けて俺が彼の方を見やると、彼の視線の先には室内を我が物顔で飛び回る一匹の蚊の姿があるのだった。
「今度こそ、外さない!」
何かのゲームでも楽しむかのように紫の瞳が細まる。それはまるで、獲物を追い詰めた時の狼さながら冷徹だった。
シューーーッ!!
スプレー孔から霧が勢いよく噴射され、それを浴びた蚊は全ての力を失いフローリングへと落ちた。
アリスがふっと微笑する。
「蚊の分際で、僕の血を吸おうなんて一億年早いよ」
その彼の笑みは、先程夢に出てきた彼の姿とピッタリと重なり合い、それはそれは恐ろしく見えた。
アリスは踵を返してドアのもとまで歩んで行くと、相変わらず呆然と座り込んでいる俺を肩越しに振り返ってこう言った。
「いつまで寝ぼけてるつもり? 早く来ないと、朝ご飯片付けちゃうよ」
俺はこくんと首だけ縦に振って返すと、彼は「じゃ、早くしてね」ともう一度念を押してから部屋を出て行った。
これから毎日、あんな恐ろしい男と顔を突き合わせながら暮らして行かなければならないのか…。
本当に大丈夫なのか、俺!?
先程アリスにやられてフローリングに落ちている蚊の死骸をぼんやりと見つめる。そうしていると、何となく未来の自分を見ているような気がしてきて、朝っぱらから酷く気分が萎えた。
呆然と座り続ける俺のもとに、リビングからと思しき朝食の良い香りが、開け放たれた部屋の入り口から流れ込んでくる。その途端、俺の腹がグーっと間抜けな音を立てた。こんな時でも腹は空く。人間とはよくできたものだ。
俺はよろよろと立ち上がると、先程ロフトから落ちた際にフローリングで打ち付けてズキズキと痛む尻を片手でさすりながら部屋を後にした。