翌日から渉は暇を見つけては海へ行き、夕凪に渡すための絵を描くことに励んだ。
木陰で絵を描いていると、打ち寄せる波の音や蝉達の声が一つの音楽のように耳に響き、とても心地良い気分になった。
絵が完成に近づくと、それを受け取った時、夕凪がどのような顔をするかが楽しみで、自然と笑顔が零れた。
「できた!」
八月末。ようやくそれは完成した。
碧海を背に佇む少年は、栗色の髪を風になびかせ穏やかに微笑む。
水面には銀の陽光がきらめき、空の淡い水色と海の鮮やかな紺碧が少年の姿を余計に清廉で美しく浮かび上がらせる。
渉自身全力で取り組んだので、今回の絵には意外と自信があった。
明日これを彼に渡すんだ。そう考えているところへ、母から庭の水遣りを頼まれ、渉は二階の自室から降りて玄関の外へ出た。
水遣りをしている途中も、明日夕凪に描いたばかりの絵を渡す瞬間が楽しみで、どうにも落ち着かずそわそわした気持ちだった。
「見てごらん、渉。怪奇月食が始まる」
言って夕凪が指差す先には、少しずつ欠けて行く真紅の月が浮かんでいる。
「そうか、今夜は月食だったんだ」
二人して瞳を輝かせ、暫し自然の神秘に見とれる。
いつもとは違うガーネット色した満月は、徐々にその姿を弓なりへと変えて行き、一度闇に飲まれた後、再び元の大きさへと戻って行った。
「渉、君と一緒に見られて本当に良かったよ」
笑顔を向けて夕凪が言う。群青の天に浮かんだ満月は、もうすっかり普段と同じ淡い金の輝きを取り戻し、二人のことを見下ろしている。
「あぁ、僕もだ。また次の月食も一緒に見よう。もちろん、この海で」
そう言って渉が夕凪の方へと向き直ると、彼は小さく首を横に振って静かに言葉を紡いだ。
「これが最後なんだよ。僕はもう、行かないとならないから」
一瞬、彼が何を伝えたいのかその真意が理解できず、渉は息を呑んで彼を見つめた。
夕凪は先程と同じ柔和な笑顔のまま、静かな眼差しを向けている。
「行く……って、どこへ!?」
ようやく渉がそう問い返すと、僅かな逡巡の後彼は
「とても、遠いところだよ。だから……もう、会うことはできない」
ついに訪れてしまった。この日が。自分はずっと、この瞬間を恐れていたのかもしれない。
彼が、夕凪が自分の前からいなくなる、その時が来るのではないかと、心の片隅でいつだって怯えていたのだ。
渉はようやく今更ながら、その事実に気が付いた。
どうして、どうして。せっかく親友になれたのに、何故今ここで離れなければならない?
渉は一度大きく首を左右に振って、語気を強めた。
「なんだよ、それ! 冗談はやめてくれよ。君にあげるために、絵だって完成させたんだ。明日渡そうと思って、僕は!」
咄嗟に手を伸ばし、夕凪の肩を掴む。触れた部位から伝わるひんやりとした感触に、渉の指先がピクリと跳ねる。
確かに夕凪は華奢だけれど、こんなにも細かっただろうか。潮風ですっかり冷え切ってしまったのか、彼の肩からは温もり一つ伝わってはこなかった。
「ありがとう。見せてもらったよ。海だけじゃなく、僕のことも描いてくれたんだね。とても良く描けてた。君は、きっと立派な画家になれるよ」
言い終わると、夕凪は穏やかに微笑んで渉の頬に片手で触れた。柔らかな掌は冷たいのに心地良く、渉の心を安堵させる。
そうだ。夕凪が遠くへ行くなんてこと、あるはずがない。
だって、今この頬に触れているのは紛れもない、彼自身の掌なのだから。
信じない。信じたくない。
「なぁ、嘘だろ? 遠くへ行くなんてさ。どうせまた、僕のことからかってるだけなんだろ?」
その問いに答えることはせず、夕凪はゆっくりと首を横に振った。茶の瞳が微かに揺らぐ。
やはり彼の話したことは、嘘ではなかったのだ。
「どう言うことだよ! 夕凪! 僕は君と同じ夢を追いかけて、一緒に大人になるって、ずっとそう思ってたのに! 何で急にそんなこと言い出すんだよ!」
声を荒げて彼へと詰め寄る。頬に触れている彼の掌の感触が徐々に薄れて行くのに頭では気づいていながらも、なんとかしてそれを否定したくて、渉は何度も何度も同じ問いを繰り返した。
「ごめん、渉……。
僕は、君と一緒に大人になることはできないんだ」
そう言った夕凪の表情は、笑顔だけれどとても哀しげで、今夜が本当に最後であることを改めて渉へと感じさせた。
徐々に透き通って行く夕凪の身体の周囲には、銀の光の粒子が無数にきらめいている。
夕凪は真剣な瞳で言葉を続けた。
「一緒に大人になることはできないけど、僕は見てるから。君が大人になって、夢を叶えるその瞬間も、ちゃんと見てるから……。
僕は、この地球の一部になる。そして大気となって、渉、君を包むよ……」
夕凪の瞳が揺らぐ。
「夕凪!」
頬に触れていた夕凪の手が遠ざかり、咄嗟にその手を取ろうと渉が手を伸ばすも、今や実体のない彼に触れることは叶わず、その手は虚しく空を切った。
銀のベールの向こうで夕凪が微笑む。
「ありがとう」
もう夕凪の声が渉に届くことはなかったが、彼の唇は最後にそう動いたようだった。
やがて彼を包んでいた銀の光は、一際明るさを増し、弾けるようにして背後で揺らめく群青の海と溶け合い、水晶の粒を散らして夜気と同化した。
翌朝、夕凪に渡すはずだった絵を縁側でぼんやりと眺めていた渉に、アイロン掛けをしていた母の真紀子がこんなことを離し始めた。
「昨夜ね、渉と同い年の男の子が亡くなったの。
小さい頃から身体が弱くて、空気の良いこの街に引っ越してきたらしいんだけど、八月になって病気が悪化しちゃってね。
夕凪君って言うんだけど、渉と同じで、絵を描くのが大好きな子だったわ」
悲しげな表情で話し終えると、真紀子は渉の手にしていた絵に気づくことなく、和室を出て行った。
絵の中の少年が渉に優しく微笑みかける。
木々を揺らす風に門の方へと視線を向けるけれど、灰白色の道と街路灯の鉄柱が朝陽を反射する他に、待ち人を見つけることはできなかった。
視界に映る眩しい朝の景色が、ゆらゆらと乱反射して霞んで行く。
いつのまにか、もうほとんど蝉の声もしなくなっていた。秋を間近に控えた風が渉の前髪をさらい、穏やかに通り過ぎた。
〜了〜