英国物語ルキア【完結】
□リクエストステージ「揺章」
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「よく務めているようだな」
ルキアが朽木邸に戻って3日め。
多忙を極める朽木家当主、白哉がようやくルキアの部屋を訪ねてきた。
「兄様!」
ぼんやりと窓の外の庭を眺めていたルキアは、待ちかねたその涼やかな声に途端に身を引き締めた。
「いや、そのままでいい。楽にしていろ。…私も茶を頂こうか」
ルキアの向かいに座り、控えていたメイドに声をかけて下がらせる。
ルキアはかしこまって部屋の外へと出ていくメイドを眺めながら、いつもならお茶を淹れるのは自分の仕事で、けれどこの屋敷においてはお茶を淹れてもらうのが仕事だなんて、ややこしい事だ、と音に出さず溜息をつく。
「松本家より労いの知らせがあった。大変満足のいく働きをしてもらっている、心行くまで休んで欲しい、と」
兄の言葉に、力が抜けていく。
(ああ、よかった)
もちろん、自信はあった。うまくやっているという。
しかし言葉として評価されることで、それは途端に意味を持ち、ルキアの全身を満たした。どうやら、ようやく自分は兄の恥とならずに済んだようだ。
「ずいぶんと頑張っている」
眩しそうに自分を見る兄のまなざしにルキアは不思議な感覚を覚えた。
まるで、愛されているような。
(…そんなはずはない)
兄は貴族の務めとしてみなしごを引き取ったのだ。自分が亡き奥方によく似ているから、身内として引き取ってくれたのだ。
そう、この家に入った当日に、執事から教えられた。
それは義務であり他愛もない慰みだ。あるいは情へと変化はしたかもしれない。
けれど、まるで本当の家族にように愛されるなどということは。
(あるはずがない。そんなことは)
拾い上げた孤児がやっとまともに務めを果たし、気が緩んだのだろう。
ルキアは強引にそう言い聞かせて仄かな期待にふたをした。
もしかしたら、家族というのは血縁がなくとも繋がれるものなのではないかと。自分と義兄の間にもそれは繋がるのではないのかと。
そんな期待が、許されるはずはないから。
「ちょうど良い時期だ。本邸にてカクテルパーティーを執り行う。おまえも出席するといい」
「…え、そんな」
まだ社交界に認められていない自分がパーティーに出席などおこがましいことだ。兄に恥をかかせるわけにはいかない。
「お気持ちはありがたいですが、自分はまだ…」
「ああ、デビューはしていないが、当家がホスト役の集まりなら顔だしぐらいは許される。松本家のおかげでずいぶんと良い評判がまわっているらしいしな」
「えっ」
社交界の頂点に咲く華、松本乱菊の発言力は半端ではない。
「前もって顔を出すのも勉強になる。肌を出さない白のワンピースで。中心には近寄らず、エントランス付近のゲストのお相手を。それが『デビュー前』の決まりだ」
「は、はい!」
「気負うことはない。今のお前なら充分に淑女として振舞えるだろう。…以前は、少し少年のようなところがあったが」
そのいい振りに、ルキアは一瞬小言かと肝を冷やしかけたが、微笑むようなその目元と口元に、この義兄は冗談を言ったのだと理解し、言葉にならないくすぐったさに肩を竦めた。
「…少しは、成長できたのでしょうか」
期待を以って問いかけると、無言の微笑で返される。それは肯定。
「…ああ…、兄様…」
「…何を涙する?」
突然瞳を潤ませたルキアに白哉は怖気づく。
「…兄様、知っておられましたか?涙というのは、嬉しいときにも、出てくるのです」
溢れ出そうな雫を押さえながら、ルキアは微笑みを返した。
「私は、それを松本邸で、知りました」
涙は、悲しみを、苦しみを流すためだけのものではないという事を。
「兄様…、兄様、私を松本邸へお導きくださって、本当にありがとうございます」
それはそれは幸福そうに自分を見つめるルキアに、白哉は深い安堵と、僅かな胸騒ぎを覚えた。
白哉にとって義妹の幸福は自分の幸福と同義。ルキアが幸せであればそれだけで自分は救われたような錯覚に浸る事ができる。
どのような経緯であれ、松本公爵邸への奉公は良い結果をもたらしたのだろう、と自分を納得させようとして、引っかかる。
あの満たされたようなあたたかな微笑は。
何事にも揺るがぬような強さを芯に秘めた微笑みは。
(緋真…)
なぜか亡き妻が己を見つめていた瞳を思い出す。
それは愛しい者が在る事を知る者の瞳。
白哉の胸を不安が鎖した。
(…もしや、ルキアは)
誰かを愛する事を知ったのだろうか。
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