英国物語ルキア【完結】

□凛章
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「失礼します」

トーンの低い声で石田が声をかけると、中から「入れ」とくぐもった声が聞こえた。

音をたてずに扉を開き「お疲れのところ申し訳ございません」と石田は戸口で一礼する。

「前置きはいい。用事だけ言え」

部屋の中は僅かな灯りで、装飾品の少ない殺風景な室内はまるで年齢に見合っていなかった。

年頃の子供が喜びそうなものは一切無く、書籍や書類で溢れかえっている。乱菊の部屋とは対照的だ、とルキアはあえて関係無い事を考えた。

件の次期当主は、その書類の前で書斎椅子に身を預けていた。

「朽木公爵からお預かりしたルキア嬢にお目通しを」

そう言うと石田はルキアに視線で合図する。

ルキアは頷き、冬獅郎の前に歩み出て深く膝を折った。

「お留守の間に失礼致しました。お世話になります、朽木ルキアと申します」

肘置きに頬杖をつきながら冬獅郎は書類から目を離した。

「…ああ、そうか。朽木令嬢が来るんだったな」

書類を山の中に戻し、冬獅郎は机に肘をつく。

「行儀見習いには向かない家だが…まぁ使用人は皆中々の職人だ。学ぶこともあるだろう」

冬獅郎の貫禄ある物言いにルキアは当てられる。自分より5つも年下だなどという事は、すっかり意識の外に行った。

「恐れ入ります」

両手を前で組み、腰を折るルキアの振る舞いに冬獅郎は少しだけ目元を緩めた。

「…流石は名に高い朽木家の養子だ。5年でその品格、…並の努力じゃねぇな」

少しはウチの公爵に見習わせたいもんだ、と言われ、その手放しの賞賛にルキアは頬を紅潮させた。

「とんでもない事でございます」

恐れ入るルキアの態度に、冬獅郎はいよいよ目元を崩し、珍しく見せた微笑に石田は無言で驚いていた。

「謙遜も淑女だな。…その品格、松本公爵に伝授してやってくれ」

冗談めかした言い方にルキアも微笑みながら、その言い方に感じた違和感を口にする。

「…ご母堂なのに、母上様とはお呼びにならないのですか?」

瞬間、冬獅郎の顔は強張り、石田が慌てる。

「朽木さん、僭越だよ!」

「いや、いい」

大きな声を出した石田を冬獅郎は片手を上げて制する。

「当然の疑問だ」

その様子に、触れてはいけない事に触れてしまったことを察したルキアは強く手を握る。

「も、申し訳ございません!」

「いや、いいんだ。本当に。…俺はあの人を母親と思っていない。だから母とは呼ばない。…ただ、それだけの事だ」

固く閉ざされた感情。

どんな想いが渦巻いているのかはルキアにはわからなかったが、その言葉が本心でない事だけはわかった。

今までの大人びた印象とは随分と違う稚拙な言い分にルキアは反抗心を覚えた。少しの苛立ちを以って。

躊躇した後「僭越を重ねますが」と前置きして冬獅郎を見つめる。

「本心をお認めになられるのが大人になるという事だと思いますわ」

それは暗に「まだまだ子供ですね」と言っている。

たった今、失言に慌てふためいていた人物とは同一と思えない堂々とした不遜振りに室内の2人は言葉を失う。

「…朽木さん…」

冷や汗を流しながら石田がルキアを咎めようと声をあげたが、「だって生きて目の前に居る母親を母と認めないなんておかしな話じゃありませんか」と石田にまで食ってかかる。

「母親を失う悲しみをご存知ないからそんな事を言えるんです」

その時ルキアは、船の舳先から水面に放り投げられたグラスを思い出していた。それを見送った一護の顔も。

ほんの一瞬、不用意に触れた一護の心の奥は、惜しげも無い愛情で満たされていた。同じくらいの悲哀と共に。

「愛していない訳がないのに」

「…挨拶が済んだなら戻れ」

ついに冬獅郎はルキアを咎めた。

鋭い眼光はそれ以上を許さないと命じている。

蓋をしようとする冬獅郎の態度にルキアは「どうして」と続け、しかしそれは石田に遮られた。

「朽木さん、冬獅郎様は、戻れ、とおっしゃったよ」

静かに腕を掴まれ、流石にそれ以上は言えずにルキアは言葉を呑んだ。

けれど、水面へ放り投げられ沈んでいくグラスが頭から離れない。

(一護は、もう二度と母上の演奏を聴くことは出来ない。一護は、もう二度と母上と微笑みを交わす事は出来ない)

それをどんなに強く望んだとしても。

そしてそれを望む事に、きっと一護はなんの躊躇いも恥じらいもない。会いたいかと問えば照れも隠しもせずに肯定するだろう。少し不機嫌そうに。

(目の前に居る母親を否定するなんて)

それがどれほど愚かで傲慢な事か、うまく伝えられない悔しさにルキアは唇を噛み、かろうじて会釈を残すと部屋を飛び出した。

「ひゃっ」

戸口に控えていた雛森が短い悲鳴をあげ、手に持っていたティーセットを落とさないようにバランスをとる。

「ああ…すまない」

目を逸らしたままそれだけ言うと、再びルキアは走り出し階段の下へと姿を消した。

雛森が伺うように室内をのぞくと、疲れ果てた様子の石田が「後は頼むよ」と肩に手を置き雛森を部屋の中へ押しやって戸を閉めた。
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