英国物語ルキア【完結】
□流章
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年代物とおぼしき絨毯の敷き詰められた階段を上り、デッキテラスへの扉を開くと、一斉に湿気を含んだ風が顔を髪を弄り、ルキアは目を閉じる。
潮風ならベタつくところだが、川くだりなので空気はさらりとしている。
広々としたデッキの舳先に重厚なチェアが設えてあり、使い乱れた様子から、乱菊が今まで居た事を物語っていた。
(もう、戻られたのか…)
人影のないチェアを眺めてそう思いながらもルキアは舳先まで歩み寄り、チェアには腰掛けず先端の柵に寄りかかるオレンジの髪の人物に声をかけた。
「一護」
「うおっ!?」
「…大げさだな…こんなところで何をやっておる」
「あ?ああ、別に…なんとなく気分いいだろ、一番前って」
全身に風を受けながら、機嫌よさそうにグラスに口をつける。
「なんだ、もう飲んでおるのか」
「いいだろ別に。オマエこそなんだよ、何しに来たんだよ」
邪魔と言わんばかりの言い草に、ルキアの語調も強くなる。
「奥様にお礼を言いに来たのだ。こちらに居られたのではないのか?」
貴様に用などない、と暗に嫌味を込めて言う。
「俺と入れ違いに部屋に戻ったぜ。髪が乱れたとか言って」
さすが貴婦人。
「そうか…」
部屋まで押しかけるのは失礼だし、お礼はまた後にするか、と、船内に戻りかけたルキアはふと修兵の言葉を思い出し、決して親睦を深めたいわけではないが、と自分に言い訳しながら前を眺めたままの一護の横に並んだ。
「何?奥様は部屋だって」
「ありがとう」
「あ?」
それには色んな感謝が篭っていて、何に対してのお礼なのかと言われると説明に困るのだが、昨夜は言葉にするタイミングを失っていて、ルキアはそれがずっと気になっていた。
「昨日…色々助けて貰ったから…」
「あ?ああ、そんなもん当たり前じゃん。仕事なんだから」
礼を言われる事じゃない、と返されて、少しがっかりする。
つっけんどんな言い方とは裏腹に、手に持ったエールを一気に飲み干したのは柄にもなく照れているからだなどという事は、ルキアにわかるはずもない。
「…ピアノが、上手いのだな、一護は」
気まずさを払拭するように、当たり障りのない話題を持ち出す。
苦し紛れに出た言葉だったが、それも昨夜感じながら伝える事のなかった本心だった。
「あんな状況で、譜面もなしに弾けるなんて」
「貴族に必要な教養なら一通りできるさ。公爵家の執事なら当然」
特に松本公爵の知人は型破りな人物が多く、突然無理難題を言いつける事がしょっちゅうらしい。フェンシングの相手をしてくれとか、狩りで競争しようとか。
主に恥をかかせない程度の素養を身につける必要に迫られて覚えていくのだという。
昨日みたいな時にも役にたつだろ?と意地悪く言われ、ルキアは頬を膨らませる。
「ピアノぐらい、石田も檜佐木さんも水色も弾けるぜ。大したことじゃねえ」
ルキアもたしなみ程度に弾ける事は弾ける。教科書通りに。
けれど昨夜の演奏は、人の心を掴むような魅力的な旋律だった。それは、技術や経験ではない。才能と人柄だ。
そう言うと、「褒めてもなんも出ねぇぞ」と空になったグラスを指先で弄る。
「…でも母親が得意だったんだ、ピアノ。だからかな。小さいときによく聞いてたから」
一息に飲み干したエールが回ったのか、少し饒舌な一護は遥か前を見ながら零した。
「すげぇ愉しそうに弾くんだぜ。見てるこっちが嬉しくなるぐらい。ピアノ弾く時はいっつも笑っててさ。だから、ピアノは愉しいもんなんだって、刷り込まれたんだろうな」
今でも鍵盤を叩くとその時の想いが蘇り、わくわくする。
譜面無視してアレンジするから発表会向きじゃなかったけどな、と語る一護の横顔が優しくて、ルキアは目を細めた。
「それは、ぜひご母堂の演奏を聴いてみたいものだな」
社交辞令ではなく、心からの言葉だった。一護のしかめっつらをこんなに柔らかくほぐす演奏とはどのようなものなのかと。
しかし、ルキアがそう言うと、夢から覚めたような一護は再び元のしかめっ面に戻ってしまった。より一層、眉間に皺を寄せて。
「…そりゃあ、無理だな」
「何故だ?良いではないか。ケチケチするな」
口を尖らせてルキアが食い下がると、一護は手に持っていたグラスを水面へと放り投げた。
「あ!こら、備品を勝手に…」
「いないんだ」
「…え?」
「もう、この世にはいない。だから聴かせてやれねぇんだ」
。