英国物語ルキア【完結】
□捩章(前編)
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「雛森は、役にたっていますか?」
書斎椅子によりかかりうとうととしていたところに声をかけられて冬獅郎はハッと身体を起こす。
「…お疲れのようですね」
「…東仙か…」
気配なくそこに現れた執事長にあくび交じりに分厚い書類を渡す。
「松本公爵が仕事嫌いなせいでな」
8歳を迎えたばかりだというのに、その類稀な頭脳のおかげで「公爵」の事務的な書類仕事の多くは冬獅郎が片付ける羽目になっていた。
「また、そのような呼び方を…母上が悲しみますよ」
書類を受け取りながら東仙は困ったような顔をした。
冬獅郎は母親の事を肩書きでしか呼ばない。それは冬獅郎の、享楽的な母親に対する唯一の反抗だった。
「で?雛森がどうしたって?」
東仙の言葉には応えず、話を逸らす。
小さくため息をついた東仙は「雛森はお役にたてていますか」と繰り返した。
「石田の薦めで先日より冬獅郎様のお世話係りに着任させてみましたが…幼い頃からの馴染みというのは、ともすれば越権を伴いますから。失礼がないか心配で」
使用人と主人としての線を引かれた3年前の日を思い出し、冬獅郎は僅かに目を伏せる。長い睫が頬に影を落とした。
「メイドとしての当家での働きは確かに申し分ないのですが、専属となるとまた重責が違います。…まぁ、まだ完全に専属と言うわけではありませんけれど。
気持ちを許せる相手の方が良いのではないかと石田は言っていましたが、度が過ぎれば逆効果ですからね」
つまり仲良くしすぎてはいないか、と勘ぐっているのだ。
「石田、か。先代の執事長はあいつの祖父だったな」
「ええ。随分と敬愛しているようです。先代のような執事になりたいんだとか。…まだ熟してはおりませんが、中々の能力のようですよ」
食えない執事長が『中々の能力』と評するからには、かなりの切れ者なのだろう。
「お前の後は任せられそうか」
「少々、感情論に走るきらいがありますが」
表情は変えずに、少し肩を竦めて見せる。…それ以外は、概ね合格、ということだ。
冬獅郎は深く息を吐きながら革張りの書斎椅子に身を沈めた。
「…何も、不自由はしていないさ。雛森はよくやってる。越権行為もない。…東仙は少し潔癖すぎるな」
「あの奥様の管理をしていると、自然とそうなります」
真面目腐って言われ、「確かに」と冬獅郎は苦笑いで眉を歪めた。
その潔癖な執事長が、激昂した乱菊に暇を言い渡されたのは、それから間もなく。
そしてそれと入れ替わりに、1人の少女と1人の少年が松本家にやってきた。
…これは、そのときの、お話。
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