作品展示場

□くちびる
1ページ/1ページ



 冬の弱々しくも優しい光は室内に降り注ぎ、遠くにリコーダーの音色が響く。

 それ以外は派出須先生の書類をめくる音だけが保健室を支配していた。

 常伏町保険センターから送られてきた書類は、最近、児童を中心に溶連菌感染症が流行しているという報告と、それに関しての学校内の保健衛生の指導項目について問い合わせる内容だった。

 手洗いを励行するポスターでもつくるべきだろうかと、顎に指をあてて考え込んだところでカーテンの向こうにあるベッドから声が上がる。




「先生、唇」

 ふと、そちらに目を向けると、そこにはベッドから眠そうな目を擦りながら歩いてくる藤麓介の姿。

「やぁ、藤くん。目が覚めたかい? 気分はどう?」

「どうって、いつも通りだよ。それより、唇荒れてるぜ? 先生」

 藤にそう指摘されて、目を丸くしながらも派出須は指先を唇に押し当てると、なるほど、かさかさと堅い皮膚の感触がある。

「あぁ、乾いてしまったんだね。この時期はよくなるんだよね〜。ひどいと出血までしてしまうから」

 そう言いながら派出須は白衣のポケットからリップクリームを取り出すと、手慣れたようにひび割れた唇へと塗っていく。

 ひび割れた肌に眉のない額、多くの人からホラーな顔だと称される男が、まるで当たり前のようにリップクリームを付ける光景に、目を丸くしたのは今度は藤の方だった。

「何? いつもそれつけてんの? センセイ」

「おかしいかな?」

「いや、そんなにおかしくねーけど」




 女子のように大っぴらではないが、男子でも何人か付けているのを藤は知っている。

 但し、それはリップの本体にでかでかと「薬用」と書かれた、色気も可愛らしさも何もないリップで、周囲に見つかれば『親に言われて仕方なく』とか『子供の頃から荒れ性なんだよ』と不貞不貞しい態度でポケットの中に押し隠す代物だった。

 今、藤の目の前で蓋をされたそれには、ミツバチのイラストとHONEYの文字が読み取れた。

「外国の土産でよく見る奴だな」

「そう? 常伏デパートで買ったものなんだけど」

「なんつーか」

「意外?」

 おどけて言う派出須に藤が眉を顰ませるが、構わずに派出須は話を続けた。

「昔、友人に言われたんだよ。肌はボロボロ、髪の毛には艶がない。この上唇までカサカサしてたら、誰も貴方には近寄らないわよ、って」

「ひでぇ」

「だから、これでも付けていなさいって寄越したのが、このリップクリームなんだよ」

 




昔、彼女が友人の手の中に押し込んだものは、いつも彼女が手にしていたメーカーのリップクリーム。

 いつもいつもクラスメイトの女の子を昼休みに呼んでは、せっせと美容師の真似事のような事をしていた彼女。

 髪の毛をブラシで梳いて綺麗にまとめ上げたり、その過程で頭皮をマッサージしてあげたり首筋の筋肉をほぐしてしてあげたりしていた。

 髪を梳かれた女の子が気持ちよさそうに「ありがとう」と口にすると、満面の笑みを浮かべて彼女はこういった。

『こちらこそ。こうやって美容師になる為の練習台になってくれているんだもの〜。ありがとう。それに私、こうやって私の手によって人が綺麗に癒されていくのを見るのが好きなの』

 だからだろう。

 僕が病魔を受け入れた結果、体が枯れていくのが彼女には許せなかったのだと、派出須は思う。

『自分から体を、健康を犠牲にするなんてどうかしてるわ! そんな事して他人を助けたって、その人は喜ばない!』

 怒りに震える彼女の声は、どことなく哀しさを含んでいて、それだけで派出須は反論する余地を失う。

 彼女……いや、彼女らの言葉を聞き入れたい。だが、それは取りも直さず、病魔を手放すという事だ。

 それだけは出来ないと派出須は思う。

 人には駆逐できない、『病魔』という存在を食べ尽くすという力が捨てがたかったというのもある。しかし、派出須にとって、『病魔・冷血』は贖罪なのだ。

 多くの人を傷つけ、悲しませた罪をあがなう為にも。




 怒りに震える彼女から手渡された物を、派出須はその日から使い続けている。

(無くなってしまえば同じ物を手に入れるまで何も塗らなかったから、一時、唇の荒れが惨い事になった事もあったなぁ……ん??)

 ふと、手の中の物を見つめるために、うつむき加減だった顔を強引に上向きにさせられた。

 途端、いつの間にか近づいていた不機嫌そうな藤の顔を見つけて、派出須は嫌な予感に背筋を強ばらせる。

 一ヶ月前に『先生として好きじゃなくて、恋人を思うように好きだから、覚悟しろよ』と告げてきたこの生徒は、事あるごとに派出須を抱きしめたりキスしようとするので、藤が近づいただけで派出須はある種の緊張感に包まれるのだが、今回は過去の思い出に気持ちが捕らわれていたせいで、ここまでの接近を許してしまっていたのだ。

 藤は胡乱な表情で見下ろし、膝を派出須の足の間、椅子に乗り上げさせると、その体重を受けて椅子がギシリと音を立てる。

 なるべく、気にしていませんよ? という表情を作って派出須は藤に問いかけた。

「藤くん、何かな?」

「うるせぇ、黙れ」

 藤に整った顔立ちが目前に迫り、唇に熱い息が触れた瞬間に、派出須は瞳を閉じた。

 肘掛椅子は後ろへと勢いよく滑り、机にぶつかって派手な音を立てる。

 上から覆い被さるようにして押さえつける藤の熱い体と椅子の間に挟まれて、派出須は否応もなく焦る上、藤に下唇を甘噛されて吸い上げられて、つい声に出してしまう。




 このチャンスを逃すまいと、藤の舌が派出須の口内を犯す。

(口を閉ざせば藤のくんの舌を怪我させる)

 そうなると、もう派出須には抵抗することが出来ない。

 まるで別の生き物が這うように動く舌の感触に思考が霞んでいき、頬を飲み込みきれなかった二人の唾液が汚すのを感じて、背筋がまるで痺れたような感覚に支配された。

 派出須の顔を押さえていた右手が、その首筋を辿り、シャツの中へと滑り込んでいく。

「な、何を!? 藤く、ん」

「何って、分かるだろ?」

「いや、分からないから聞いているんだけど、その、あの、あれじゃないよね?」

「あれだったらどうするんだ?」

 目を閉じてしまっている自分には見えないが、きっと藤くんらしくない、意地悪な顔つきで笑っているのだろうと派出須は思う。

 混乱し続ける派出須の耳に授業終了のチャイムが鳴った。それは夜明けに現れた救い主のように、派出須に希望を、藤に失望を与えた。

「ふ、藤くん、チャイムが鳴ったよ?」

「それがどーした?」

「どうしたも何も、次の数学の授業には出るって約束したよね?」

 まるで絶対防ぐことの出来ない呪文のように、『約束』という言葉をしっかりと、そして尚かつゆっくりと吐き出すと、ようやく藤は耳の穴に指を突っ込みながら溜息を吐いて派出須から離れた。




「まったく、タチの悪い冗談だよ。藤くん」

「甘いかどうか確かめてみたんだよ。蜂蜜なんだろ? これって」

 そう言って、いつの間にか手にしていたリップクリームを片手で持て遊ぶ。

「甘くはないよ。蜂蜜の持つ保湿力を利用した製品で、お菓子じゃないんだから」

「そうかな?」

 怪訝な顔つきをしてリップクリームを眺めていた藤だが、まるで自分の持ち物のように蓋を開けてしまうと、先ほどの派出須のように自分の唇にリップを塗る。

「えと、その……使うのは構わないけど、その、自分専用の物を持った方がいいよ、藤くん。何だったら、僕、予備を持っているから」

「これがいいんだ」

 にっこりと微笑む藤は素早く身をかがめ、しっとりと唇を派出須のそれへと押しつけ、すぐに離れた。

「ふ、藤くん!」

「ほら、やっぱり甘いだろ?」

 楽しそうに笑い声を上げながら、藤は保健室を出て行く。

 一人、保健室に残された派出須はズルズルと椅子からずり落ちると、とうとう床の上にへたり込んで両手で顔を覆ってしまう。

 顔から火が噴き出しそうで、心臓がこの上もなく早鐘を打って、どうにかなりそうだった。

 そうして、「甘い」と一人呟かれた声は、冬の光に溶け込んで消えてしまった。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ