the other

□無題
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最近の私はおかしい。可笑しいのだ。
このたわけ、馬鹿者、精進しろと誰か言って叱咤して欲しい。


「…長政さま」
「……」
「…、長政さま」
「……」
「おやおや、これは…。最愛の奥様に見惚れていらっしゃるのですか…」
「なっ!そんなことはっ!」
「…長政さま、お抹茶冷めちゃう…」
「はっ!すまん!」
「クックックッ…」
「…っ」

しゅわしゅわ。耳を澄ませば聞こえてくる耳に心地好い釜の音。一口飲んで茶碗から目をはずせば、市は自分の横に置いた布を畳み直していた。

「…何をしているのだ、市」
「…えっと、…」
「貴方はそのようなことも知らないのですか。…はぁ。袱紗(ふくさ)をさばいているのですよ」
「…ふくさ?」
「…茶会に参加するのでしたら作法から学んで来なさい」
「なっ?!」
「…長政さま、お茶碗の拝見は…?」
「は、拝見?」
「…。仕方ないですねぇ」

横からあっさりと変態に茶碗を掻っ攫われた。

「いいものですねぇ…お作は、ああ、16代目ですか…いい色です」
「…ありがとうございます」
「銘柄は、何と?」
「…長月です、」
「長月ですか、?…ああ、そういう」

いつでもこの明智光秀という男は不気味だが、今日、特にこの瞬間はものすごく気持ち悪い且つ不気味な視線と表情を寄越す。
…見たら負けだ。目が合ったら最後、おだぶつだ。
神速で明後日の方向を向いて視界から明智を徹底排除する。

「…もう一服いかがでございますか…?」
「……」
「…貴方、見惚れ過ぎですよ」
「なっ!」
「…長政さま、もう一服いかがですか…?」
「う、うむ、貰おう」
「…かしこまりました」

洗練された所作で湯の入った茶碗に茶筅(ちゃせん)を入れて清めた後、茶碗より一回り大きい器の上で真っ逆さまにひっくり返す。
じっ、と瞬きも忘れて凝視していたら、隣の変態・明智にクスクス笑われた。…屈辱!

「っ、!」
「クク、失礼、クッ。、ゴホン、あれは建水(けんすい)というのですよ」

茶碗を清める際に使った湯や水を捨てる為の入れ物ですよ。
茶碗より一回り大きい器、など、面白い表現をする人なんて、先世後世でも貴方だけでしょう。

「黙れ明智!」
「クク、…貴方は顔に出やすいのですよ」

面白いですねぇ、貴方は。からかい甲斐のある人ですよ。

「〜〜!」
「……どうぞ…」
「!…感謝する」

手前に茶碗が置かれる。
茶碗を持つ白い市の手が視界に入って、どこか恥ずかしくて目を逸らす。

「……」

もう一服と所望してしまったが、飲み方が解らない。ちらりと明智を見るが、明智はあらぬ方向を向いて肩を震わせていた。…まだ笑っているのかこの性悪者め!

「…まず、お茶碗を右手で畳の縁内(へりうち)に取り込んで、」

聞き慣れた市の声に我に返った。市を見ると、こちらを見ていた。吸い込まれそうな程真っ黒な瞳と目が合う。
またまた恥ずかしくて目をすぐに逸らし、彼女の誘導するままに手を動かす。
…うっ、市の白い手に集中出来ん。

「…それから、自分とお隣りの方の間にお茶碗を置いて」

明智が薄気味悪い笑顔をこっちを向いた。

「…両手の指先だけついて『お先に』、」
「お、お先に、」
「…どうぞ?」
「…それから、右手で自分の正面に置いて、」
「こ、こうか、」
「…長政さま、縁内…」
「、」
「…手の平全体を畳につけて…」「……」

何気に難しい。正座の状態で手の平全部を畳にくっつけるのは少々難しい。
姿勢と、あ、足が…!

「、…長政さま、足が痺れたなら、…すぐに崩しても、いいのよ…?」
「、な、何を言う市!私は大丈夫だ!」
「……」
「な、何だ!」
「…無理、しないでね…、…両手ついたら、亭主に、『お点前頂戴いたします』」
「て、亭主?…誰だ?」
「…お茶を、点てた人、」
「つつつ、つまり、」
「くどいですねぇ。貴方の妻殿のことじゃないですか」
「つつつ妻など!まだ婚約のととと途中だ!」
「はっ!くどい。くどいですよ!…まあいい、早く飲みなさい。せっかく信長公の妹君の点てた茶がまずくなりますよ」
「言われなくても!…お点前、頂戴、…します」

飲みたいのはやまやまだ。市がせっかく点ててくれた茶なのだから。なのだが、如何せん飲み方が解らんのだ。

「…右手で左手に乗せて、右手はお茶碗に横に添えるの、…こうよ長政さま…」

左手に茶碗を乗せたはいい。右手を添えるって、その説明だけで全てが理解出来る訳でない。
ウロウロと自身の右手が茶碗の周りをさ迷っていると、白い掌に導かれた。市の、掌。百合のような繊手。
彼女の指先が触れた所から全身に熱が回る。クラクラしそうだ。頭がぼんやりしてき、た。顔が赤くなるのが分かる。ああ!誰か助けてくれ!

「…それで、……長政さま大丈夫?」
「ぅ、わぁあああ!」

あ、と市が呟く前に、長政はピシャリと閉じられた庄子にぶつかって一度挫折し、それから立ち直って庄子を豪快に開けて、靴も満足に履かず、何処かへ逃走した。
ゴン、と何か固いものにぶつかる音が遠くから聞こえた。あ、長政さままた何処かに頭をぶつけたんだ…。
呆れの溜息ももう出なかった。慣れって恐ろしい。

お茶の飲み方を指南していただけなのに。
幸いか不幸か、柔らかな泡が佇むお茶碗は市の掌中にあった為、お茶碗は畳に落ちることなくまだ中には綺麗に点てられたお抹茶があった。

「…どうしよう…」
「せっかくですから、私が頂きましょう」
「…では、どうぞ」

膝の向きを明智へと転換し、右手で二回お茶碗を回して明智の前の畳縁外(へりそと)へと置く。

「…ああ…貴女のお茶はやはり絶品ですねぇ。
…せっかく、貴女の想いをこの茶碗に託したというのに、彼は馬鹿ですねぇ」

茶碗の銘柄が長月など、目の前の彼女の夫以外に相応しいものはない。

茶碗の銘柄に込めた想いは。

「…長月、…九月十月の月は満月。…夜空をくまなく、照らしますからねぇ」

悪を絶ち善を勧める、勧善懲悪の精神で構成された夫に、満月のような暗い所抜目なくその勧善懲悪の精神が生きるように。

そして、長月の『長』はもちろん、夫の漢字。

「…此処まで趣向を凝らし、含蓄溢れる銘柄だというのに、アレは気付かないなど…」
「……長政さまだから…仕方ない…」
「そうですねぇ、アレですから、仕方ありませんねぇ」
「…もう一服いかがですか?」
「大変美味でした。どうぞ、おしまい下さい」


明智と市は二人揃って溜息をはいた。
何処からか、「せいばぃいいい!」という声が聞こえた。

End.

20101226

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