* 短編小説 *
□ * 思い出すのは色鮮やかな空の色 *
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見回りからの、帰り道。何故か真っ直ぐ戻る気になれなくて、日番谷は屋根の上でぼんやりと寝転んでいた。
目に入る景色は薄い青色一色で、時折雁の群れが空を渡って行くのを、視線だけで追いかける。
すぐに目尻の先に逃れるそれらを仰向けのまま見送って、日番谷はゆっくりと視線を戻した。
そのまま途切れ途切れに聞こえてくる隊舎の喧騒に耳を傾けていると、ふいにザァ…、と風が吹き、一束だけ垂らした前髪が額を撫でる。
反射的に目をつぶった日番谷の鼻孔に、風に乗った甘い香りが僅かに触れた。
この香りは金木犀。この近くだとどこに植えられていただろうか、と思考を巡らせ、すぐにやめる。
思い出したところで意味がない、というのもあるが、どこの桜が早咲きだの、どこの水場には蛍がいるだの。そういうのは市丸が異常に詳しくて、自分はいつも連れられていくだけだったから。
「………」
ため息も舌打ちも吐く気になれず、日番谷は薄い空をただ眺める。
大嫌いな夏と違い、目に映る青は素っ気無く、どこか物悲しいとさえ思えた。
それもまた、仕方がないと日番谷は自嘲う。
いつも共にいた男が、自分の知らぬ闇を求めてこの空のどこかに姿を消してから、まだふた月しか経っていない。
急に静かになった身の回りに、心がついて行かないのは当然のこと。
何しろこの数年、アイツに振り回され続けた身体には、あの男との記憶ばかりが残っている。
例えば、
二人で行こうと約束していたのに、何故か周囲にバレて隊長副隊長ご一行様になってしまった初詣。
甘いものなんて好きでもないくせに、「これは特別やねん!」と大騒ぎされたバレンタイン。
黙らせる為にやったチロルチョコ(激マズ干し柿味)のお返しに、やたらデカイべっ甲飴を手作りしたのはいいけれど、棒が折れて蟻の餌食になったホワイトデー。
「この場所は誰にも教えたらあかんよ」、と口封じのキスをされた桜の下。
鯉のぼり片手に「日番谷さんの日」と地雷を踏んで、氷漬けになったこどもの日。
現世の結婚情報誌に踊らされて、真剣な顔でプロポーズしてきた紫陽花の庭。
山ほどの短冊に「いつまでも一緒にいれらますように」と書いて笹を一杯にした星月夜。
なのにあっさりと俺の前から姿を消した、うだるような真夏の午後。
「…ちっ」
無理に舌打ち、唇を噛んで横臥する。
目に入った屋根瓦の冷たい色に、僅かに心が安堵した。
正直、これまで市丸を失う恐怖を抱いたことなどなかったし、もしそうなっても自分は自分を保てるだろう。
そんな根拠のない自信があった。
だけど実際にそうなってみると、
アイツの産まれた九月も、焚き火で芋を焼いた十月も、紅葉を俺の手のひらに例えた十一月も、イベントだらけだと振り回された十二月も。
もう二度とあんな風には笑えないし、むしろ、ただ過ぎて行くだけの毎日としか思えない。
アイツ等が消えたのも、日々が単調になったのも、どうしようもない事実。
だけど、それが何だって言うのだろう。
飯を食って、仕事をして。寝て、起きて。
生きていくために必要なものを、俺は何一つ失っちゃいないだろう?
ただ少し、感情を露にすることと、空を見上げる回数が減っただけ。
アイツと知り合うより前に、戻っただけ。
『―――やさん』
「……、ッ」
強がることを許さない、とばかりに馴染んだ声に名前を呼ばれる。
それだけで揺さぶられるくせに、どうしてアイツの事なんか考えてしまったんだろう。と面影が形になる前に、目を閉じた。
大したものは失っていない。と言いながら、俺はぽっかり空いた心の穴を埋めることすら恐れてる。
それはまるで、何でもないことのような顔をしていれば、いつかあの日々が戻ってくると信じたがっているようで。
「……ははッ、」
こんなの、自分らしくない。
失ったものに焦がれるなんて、ただ逃げているだけに過ぎないのに。
――それでも今、立ち続けるためには。
自分自身の心すら、見て見ぬフリをするしかなくて―――。
震えた唇を無理矢理結ぶ直前に、隣を歩くアイツを見上げるたびに目に入った、空のひとつが瞼の裏をじわりと焼いた。
- オワリ -
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