* 短編小説 *
□ * 質問させて貰っていいですか? V *
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「泣いとったやろ?」
はっと顔を上げれば、その恋人が。
穏やかな声音ににこやかな笑みを浮かべて、自分を見つめている。
穏やかな…と言うと普通優しげな印象になるものだが…。この相手に限っては全くそれが該当しない。
むしろ、抱かせるものは……、恐怖。
「ボクんとこ来た時は、泣いとったよ。顔真っ赤にして、おめめうるうるやった」
どうやらウチを飛び出した勢いのまま、市丸隊長の元に向かったらしい。
それがどんな状況を生み出したか想像したくもないが…。この流れで解ったことが三つある。
ひとつは、日番谷を宥める為に市丸が労を費やしたこと。
次にその原因を作った自分に報復をしに来た事。
……そして今まさに、自分の命は風前の灯であるという事――。
「良ぇもん見たなぁ…。檜佐木クン?」
可愛かったやろ、と追い討ちをかけるような、満面の笑み。
市丸から発せられる凍れる霊気に意識を失いかけながら、檜佐木は長いようで短かった死神人生を、走馬灯のように思い返す。
すみません、東仙隊長…。後の事は頼みます…。
それから、…ごめん。俺はここまでだけど、今まで一緒にいられて嬉しかった…。
「何ぶつぶつ言うてんの?」
人生の振り返りを終了し、最後の言葉を残している最中に、現実に引き戻される。どうやら遺言が口から出てしまっていたらしい。
それに不機嫌さを増した市丸が、いつの間にか目の前に立っていた。
「ひっ」
恐怖に思い切り飛び退った拍子に、壁に背中を強かに打ちつけたが、痛がっている場合ではない。
跳ね上がる鼓動を聞きながら、檜佐木は下げた両の手のひらを壁に押し付け、ずり落ちそうな身体を何とか支える。
それを無言で見ていた市丸の、しかめた眉頭がすぅっと伸びた。そして細めた目と薄い唇が、対象的な弧を描いていく。
貧弱な獲物を前にしたような優美さで、細くしなやかな…その、指を。腰の刀にするりと伸ばす。
「ま…、ホウドウのジユウってやつやけどー」
妙に間延びした声に、相変わらずの作られた笑み。
しかしその手には、きらきらと光を反射する、抜き身の刃。
恋人でも直接の部下でもない自分には、これが脅しなのか本気なのか、その真意は掴めない。
ただ目の前には抜刀した上官がいる。その現実だけが、迫ってくる。
ええと…。まさか本当に、…殺るつもりか?
……日番谷隊長を泣かせたという罪で?
(いや、サスガに…)
ないだろう、と思いたいのだが。
破裂しそうなほど必死に危険を知らせる心臓が、この人ならばやりかねない、と訴える。
すっかりパニックに陥っている檜佐木に、ふ、と笑った長身は、その思考を停止させるように、なんとも無造作に黒の着物から伸びる細く長い腕を閃めかせた。
それと同時に、背後の壁を突く音と、何らかの飛沫が首を掠める感触。
それが何なのか考えるよりも早く、自身の頬に触れるか否かの距離にある刀身によって、初めて切っ先が横を掠めた事を理解した。
刃の速さと遅れてやってきた驚愕に、見張った目を閉じることも逸らすことも出来ず、声もなく檜佐木は目の前の笑顔を見つめる。
何の躊躇いもなく振られた腕は、その気になれば、自分の命をいとも容易く奪えるのだろう。
「泣かしたら、あかんなァ」
どこか遠い所から聞こえてきた優しげな声に、檜佐木は半ば無意識に頷いた。
それを見て、市丸は壁と自身の間に封じるように突いていた刀を引く。そして戻した先端を一瞥し、手首を返すと檜佐木の目の前にそれを突き出した。
「…ッ!」
今度は高速の所作ではなかったが、逆に目で追える現実に身体を震わせ、これ以上ないほどに壁に背を押し当てるこちらに向かって。
「見てみ。この時期に蚊ぁおるなんて、珍しなぁ」
くくく、と笑いを零しながら見せ付ける、その刀身の煌きと僅かに濡れる鮮血のコントラストに、頭がくらくらする。
もしや、と違和感を感じた首筋に手を当てて拭えば、思った通り手のひらに移る微かな赤。
誰のものか解らないその色と意味深な言葉に、自身の体温が更に下がったのを感じた。
笑いながらくるりと背を向け、懐から取り出した懐紙で先端を拭い、ぽいと屑入れに放り込む。
今朝片付けたばかりのその底で、落ちた懐紙がかさりと軽い音を立てた。
それに、全身の血がとんでもない速度で巡っていた檜佐木は、溜めていた息をようやく吐き出す。
「どしたん?……あー、もしかして驚かせてしもた?…堪忍なァ。素手で殺すん気色悪いやろ?」
手ぇ汚れるしー、とすまして言う市丸に、檜佐木は「ソウデスカ」と口内で呟いた。
どこの世界に、蚊を殺す為に刀を使う者がいるのだろうか。
しかも死神にとって命とも言える斬魄刀で。
針に糸を通すような正確さと目に見えて判る嫌がらせに、市丸の実力と性格の恐ろしさを、そして禁忌たる所以を知った。
(あ…有り得ねぇ……)
こんな人と恋仲って、日番谷隊長アナタって人は…。
改めて隣隊の隊長の偉大さを思い、檜佐木は二度とこのふたりにちょっかいを出さないことを誓った、のだが。
その決意は次の市丸の一言で、即座に覆される。
否、自ら覆す事になる……。
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