戦国無双武将辞書

【い】 3件

【石川五右衛門 (いしかわごえもん)】
石川五右衛門(いしかわ ごえもん):安土桃山時代に出没した盗賊である。出生地は伊賀国・遠江国(現・浜松市)・河内国・丹後国などの諸説があり、伊賀流忍者の抜け忍であったのではないかという説もある。

一説に三好氏の臣 石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し16歳で主家の宝蔵を破り、番人3人を斬り黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいたが、文禄3年追捕せられ、京都三条河原で一子とともに釜で煎殺されたという。

逸話/人物
・百地三太夫(百地丹波)について伊賀流忍術を学んだが、三太夫の妻と密通した上に妾を殺害して逃亡したとの伝承が知られている。
・幼名は五郎吉。幼い頃から非行を繰り返し、14歳か15歳の頃に父母を亡くす。19歳の頃からについては幾つかの説があり、主に「伊賀に渡り、忍者の弟子になった後、京を出て盗賊になった」とか「奉公した男性の妻と駆け落ちした」などがある。
・盗賊の彼が人気を博した理由は、浄瑠璃や歌舞伎の演題としてとりあげられ、これらの創作の中で次第に義賊として扱われるようになったことが挙げられる。


【石田三成 (いしだみつなり)】
豊臣政権の五奉行の一人奸臣説が強いが、現在では正確な三成像を描く模索が続いている。

逸話/人物
・関ヶ原の戦いの際に、大谷吉継は三成に対して三成の横柄な態度を諌め、大将を別に立てるよう進言し、三成も当初従ったものの、後にはいつもの横柄さに戻ってしまったという。
・征伐戦が比較的短期間で終わったのは、三成という有能な行政官僚が輜重を担当していたからだとされている。
・太閤検地においては検地尺を定めるなど、大きな実績を残した。豊臣家奉行の筆頭格であり、優れた行政能力を持った官僚であったという評価は定着している。


【今川義元 (いまがわよしもと)】
今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の武将・大名。駿河国(現在の静岡県中部)の守護大名・戦国大名。
足利氏の分家で、駿河今川家第9代当主。北条氏康の義弟、武田信玄の義兄でもある。寄親・寄子制度を設けての革命的な軍事改革などの領国経営のみならず、外征面でも優れた才能を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江・東三河から、西三河や尾張の一部にまで拡大するなど、戦国時代における今川家の最盛期を築いた。
しかし尾張に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長の奇襲を受け、戦死した。

逸話/人物
・実際には、政治・軍事に卓越した手腕を見せた人物であり、特に内政面において辣腕を振るい、商業保護や流通統制、寄親寄子制度による家臣団の結束強化を図るなど優れた行政改革を進めた。
・公家文化に関して、それに精通していることは、素養の高さを示すものと言える。



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