戦国無双武将辞書

【し】 3件

【柴田勝家 (しばたかついえ)】
柴田 勝家(しばた かついえ)は、若いころから尾張の織田信秀の家臣として仕え、尾張愛知郡下社村を領したという。信長継承の頃には織田家の重鎮であった。信秀が死去すると、子の織田信行(信勝)に家老として仕えた。
信勝を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し、信勝の兄・織田信長の排除を試みたが、信長との戦いに敗れて剃髪し、信長に降伏した。

逸話/人物
・信長に一度反抗した人物にも関わらず、信長は勝家の武略を高く評価して厚い信任を置いた。また、勝家の信長に対する忠誠心は絶対であったとまで言われている。
・生涯を通して合戦での活躍が目立つ勝家だが、政治家としても優秀な人物であり、善政を敷き、領地をよく治めたといわれている。だからこそ、織田家で最も多くの領地を有したと考えられている。
・元来、武骨の性格でその秀でた武勇から鬼柴田と呼ばれ、戦場における突進力では柴田勝家が随一という意味でかかれ柴田とも呼ばれた


【島左近 (しまさこん)】
本名:島 清興(しま きよおき)。通称である島 左近(しま さこん)の名で一般に広く知られる。石田三成の家臣。実名は俗に勝猛(かつたけ)などともいうが、文書から確かなのは清興である。
「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの人物であった。

逸話/人物
・はじめは筒井氏に従属する領主の一人であった。
・三成が召抱えた時、禄高4万石のうちの2万石を与えると言う破格の待遇であったと言われる。
・関が原での最期の折の勇猛さ、狂気じみた奮戦ぶりは東軍諸将のあいだでも語り草となり、兵士たちは関ヶ原から数年が過ぎても悪夢にうなされたと言われる。


【島津義弘 (しまづよしひろ)】
島津氏の第17代目当主。若い頃から剛勇で知られ、南九州の敵対勢力を撃破して勢力を拡大していった。

逸話/人物
・祖父・島津忠良から「雄武英略は他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。
・医術や茶の湯、学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。また家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。
・敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。
・愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。



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