三国無双武将辞書

【り】 4件

【陸遜 (りくそん)】
陸 遜(りく そん)本名は陸議。字は伯言。関羽討伐戦や夷陵の戦いにおいて名をあげ、軍政両務における呉帝国前期の重臣として重用されたが、晩年は孫権と対立した。

逸話/人物
・正史三国志においては、三国の主君を除いて諸葛亮と陸遜のみが一巻をもって単独で伝を立てられるという特別扱いを受けている。
・陳寿は彼の計略の巧みさと忠誠心を評価し、「立派に社稷の臣と呼びえる」としている。
・皇太子問題で孫権の激鱗に触れ、憤死に追い込まれた。演技ではこの事は書かれず、五丈原での戦以降いつの間にか姿を消している。


【劉 備 (りゅうび)】
劉備(りゅうび)字は玄徳。後漢末から三国時代にかけて活躍した武将。蜀(蜀漢)の初代皇帝。

逸話/人物
・若いころは男伊達を気取り豪侠と好んで交わりを結んでおり、吉川英治の小説『三国志』のような高潔な人物というよりは、任侠の気が強い人物だったと言える。
・黄巾の乱で名を上げた後、督郵が公務でやって来た際に面会を断られたのに腹を立ててそのまま押し入ると、縛りあげて杖で200回叩き、官の印綬を督郵の首にかけ、官を捨てて逃亡した。吉川英治の『三国志』では、イメージが違うということで張飛がその約を代行している。
・陳寿の評では、「度量が大きく強い意志を持ち、おおらかな心をもって礼儀正しく人に接し、人物を良く見極めて、ふさわしい待遇を与えた。」と評価している。
・死後を諸葛亮に全て託すのに際して、何らの疑念を抱かなかったことは、君臣の公正無私な関係を現すものとして、永遠に手本とすべき事例である。


【呂 布 (りょふ)】
呂 布(りょ ふ)字は奉先。戦乱の後漢末期にあって群を抜く武勇を誇り、三国志の物語等では最強の武将として描かれる。

逸話/人物
・猛々しく・華やかに、また欲望に弱く、判断力に欠ける点など人間的な面も際立たせ、『演義』を彩る大きな個性として際立った存在感を持つ。
・通り名:飛将軍。(詳しくはクイズをどうぞ)
・陳寿は「歴史上、彼のような人物が破滅しなかったためしはない」と評価する。
・張燕戦では、張燕に一万余の精鋭兵と数千の騎兵があったにもかかわらず、数十騎を率い、張燕の陣に駆突した。日に3度4度と突撃し、連戦十余日で、ついに張燕軍を撃ち破ったとあるので、実際の武勇はすさまじいものがあった。


【呂蒙 (りょもう)】
呂 蒙(りょ もう)字は子明。孫策・孫権に仕えた武将。

逸話/人物
・魯粛の後任として荊州に訪れた呂蒙に対し、魯粛があれこれ質問してみると、勉学に励んでいた呂蒙は何でもスラスラと答えてしまったという。このため、魯粛は呂蒙を「呉下の阿蒙に非ず」と評し、それに対して呂蒙は「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」(日々鍛錬している者は三日も会わなければ見違えるほど変わっているということ。転じて、いつまでも同じ先入観で物事を見ずに常に新しいものとして見よという意味)と言ったといわれている。
・陳寿は呂蒙を、勇敢であるとともに軍略を知る、単に武将であるだけに留まらない人物と評している。
・荊州の関羽討伐を計画(演義では陸遜が考えたと言われている)、関羽が北方に進軍している留守を狙って荊州に進行する、その際兵に戦地での略奪を禁じ、人民や捕虜も手厚く保護するように徹底した。その効果もあって関羽が戻ってきたときには荊州の人民は呉に心を開き、それを見た兵たちも呉に降伏してしまったという。
・忠義心にも厚く、孫権から貰った褒美は全て使わずに保管しておいて自分が死んだ後は全て返納する遺言していたらしい。



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