三国無双武将辞書

【ち】 6件

【趙雲 (ちょううん)】
趙 雲(ちょううん)字は子龍。中国、後漢末から三国時代の蜀(蜀漢)に仕えた軍人。

逸話/人物
・小説『三国志演義』において、趙雲は正史に比べて記述が多く、五虎大将軍の一人として、非常に勇猛かつ義に篤い、また冷静沈着な武芸の達人として描かれている。
・『演義』で五虎大将軍として称えられた趙雲であるが、史実の上では五人中最も位が低く、その位階職位は魏延よりも下であった。
・漢中攻め(定軍山の戦い)では黄忠を救出し見事な撤退戦と空城計を演じ、劉備から「子龍は一身これ胆なり(子龍は度胸の塊の意)」と賞賛され、軍中では虎威将軍と呼ばれるようになった。
・『趙雲別伝』によると、趙雲は身長八尺(約184cm)、姿や顔つきが際立って立派だった。
・地元中国では、趙雲は黄忠と並んでの老将というイメージが強いらしい。
・正史においては長坂坡のこと以外にほとんど記述されていない。


【張角 (ちょうかく)】
張 角(ちょう かく)太平道の教祖で自らを大賢良師(または太平道人)と称し、太平道の信者を集め、後漢末(184年)に「蒼天(後漢)已死 黄天(太平道)當立 ・・・」というスローガンを掲げ、弟の張宝、張梁らと共に後漢に反旗を翻した人物。

逸話/人物
・張角らの一党は「黄天」すなわち黄色をイメージカラーとし、黄色い布を頭に巻きつけた為「黄巾賊」と呼ばれた。張角が起こした反乱を「黄巾の乱」と呼ぶのはこれが由縁である。
・小説『三国志演義』では、張角、張宝、張梁の3兄弟は貧しい暮らしをしていて、薬草を採って売ったり、商人の荷物運びを手伝ったりしてなんとか生計を立てていた。ある日、張角が薪を採りに山の中へ入っていくと南華老仙という人物に会い、「太平要術の書」を授かる。もともと漢王朝の腐敗を憎んでいた張角は南華老仙の教えに従って、ついには風雨を呼び起こす力を会得、民には符水(呪いを施した水)を飲ませて病の床に臥している人を救ったと言われている。


【張郃 (ちょうこう)】
張郃(ちょうこう)字は儁乂。初め韓馥、次いで袁紹に仕え、その後曹操に降伏。魏国における対蜀漢戦の要として重用される。

逸話/人物
・張郃は変化の法則をわきまえており、よく陣営を統率し、状況や地形を考慮して計略通りにいかないことはなかったとされる。そのため、諸葛亮以下蜀の将兵は、皆張郃を恐れたとある。
・吉川英治の「三国志」では作者のミスで、三回も戦死している。
・吉川英治の「三国志」ではあまりパッとしない武将として書かれているが、その能力は魏の将軍の中でも高く、将軍として一流の人物であった。
・諸葛亮率いる蜀漢の軍勢が祁山から全面撤退を開始した時に、張郃は蜀軍を追撃したが矢が右膝に当たり死去した。


【貂蝉 (ちょうせん)】
貂蝉(ちょうせん)架空の人物であり、後漢の臣王允の養女とされる。楊貴妃・西施・王昭君と並び、古代中国四大美人の一人に数えられる。史実にその名は見えず、小説『三国志演義』に登場する。

逸話/人物
・中国においては、史書『三国志』の「呂布が董卓の侍女と密通し、発覚をおそれて王允に相談したが、董卓打倒を考えていた王允はこの際、董卓を討てと進言し呂布はそれを実行した」を引き、この「董卓の侍女」こそがモデルで、後世の講談や物語において架空の名前をつけたとする説がある。
・「興亡三国志」では寝室で貂蝉を紹介されて困ってしまう劉備の姿や、そこで貂蝉に一目惚れしてしまう関羽など、なかなか面白い描写がある。


【張 飛 (ちょうひ)】
張 飛(ちょうひ)字は益コ。『三国志演義』では「翼コ」で張翼徳としている。劉備の挙兵当初から付き従った古参で、その人並み外れた勇猛で有名。

逸話/人物
・曹操の参謀であった程cらから「一人で一万の兵に匹敵する」と評された。
・知識人層には紳士的にふるまったものの、身分の低い者、兵卒などは軽視していた。
・張飛は「強くて豪快。曲がったことが大嫌いで、悪い奴はたとえ身分の高いものでも許さない。乱暴者だが悪気が無いので憎めない」キャラクターとして人気があり、『三国志』を題材にした雑劇で、張飛を主役としたものが多数ある。
・最後は、かねてから張飛に恨みを抱いていた部下の張達・范彊に殺された。


【張 遼 (ちょうりょう)】
張 遼(ちょう りょう)字は文遠。同郷の丁原に見出され、武勇を買われてその家臣となったが、都の権力闘争に翻弄され主君を転々と替えている。呂布が下邳で曹操に敗れて処刑されると曹操に仕えた。

逸話/人物
・張遼は、その名将ぶりから魏将の中でも極めて人気が高い武将の一人である。
・小説『三国志演義』では合肥で孫権軍を破り、夜襲を企てた猛将・太史慈を討ち取る。これは『三国志』本伝に見える荊州での逸話を利用した創作である。
・合肥の戦いの際、孫権は張遼らを、大軍をもって何重にも囲んだが、張遼は配下の兵と共に包囲を破って脱出した。しかし、この時張遼は逃げ遅れた配下の兵士達がいることに気付いたため、引き返して包囲の中に突入、配下を助け出し、さらにまた包囲を破って脱出した。この日、張遼らは半日間の間戦い続けたとされている。
・『三国志演義』でも同じく合肥の戦いで張遼の活躍ぶりが描かれているが、むしろ表現の苛烈さは史実が勝り、『演義』の方が活躍描写が過小化しているという、極めて珍しい例になっている。



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