三国無双武将辞書

【そ】 6件

【曹 仁 (そうじん)】
曹 仁(そう じん)字は子孝。 曹操の従弟(但し、血は繋がっていない)。
曹魏の最古参武将の一人として各地を転戦し、晩年は大将軍、大司馬にまで昇った。

逸話/人物
・曹操の従兄弟で武芸百般に通じ、特に弓術や馬術を得意としていた。
・厳格に法を遵守し、常に法と照らし合わせて信賞必罰を行なうなど、諸将の見本になったとされている。
・皆殺しをしようとする曹操に「退路を開けないため、敵は必死となります。これと戦うのは良策ではありません。」と諫めた。兵法にも通じる猪武者ではないとうかがえる。
・曹仁は若い頃は乱暴者であったため、父に疎まれて家督を弟の曹純に譲られるなど不運が続いた。苦労する過程で人間的に逞しく成長していったと言える。


【曹 操 (そうそう)】
曹 操(そう そう)字は孟徳、幼名は阿瞞また吉利。
後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。後世では魏武帝、魏武とも呼ばれる。

逸話/人物
・曹操は適材適所の采配をしており、『魏書』には「任された将兵は立場をよく理解し、自らの武と奇策をもって難に向かった」との記述が残る。荀ケによれば、曹操軍の軍法軍令は明白で、賞罰も的確に行われていた。
・当時画期的と言える屯田制が、曹操が他の群雄を退け勝ち残った大きな理由のひとつと言える。
・曹操は個人的な武芸にも優れていたらしく、曹操の武術に関する逸話が多数残っている。
・文武両面に非凡な才能を見せた曹操を陳寿は「非常の人、超世の傑」(非常な才能の持ち主であり、時代を超えた英雄である)と評している。
・『三国志演義』の影響によって悪役としての評価がほとんど定着してしまった曹操であるが、再評価が進んでいる。日本ではよく「信長」にたとえられる。


【孫堅 (そんけん)】
孫 堅(そん けん)字は文台。三国時代に成立した呉の皇帝である孫権の父。

逸話/人物
・孫武の子孫と伝えられているが、彼の父を初めとして、どのような家柄の生まれであったかは不明である。
・襄陽近辺の峴山に孫堅が一人でいる時に、黄祖の部下に射殺された。享年37。
・正史でも軍略に優れていたことを伺わせるエピソードが多い。
・反董卓同盟軍では先鋒を務め、董卓軍に対し一進一退の攻防を繰り広げ、董卓配下の華雄を倒し、呂布を退却させるなどの戦果をあげていった。
・17歳の時、銭唐で賊の略奪を行っている状況に遭遇。それを、あたかも大軍を指揮して海賊を包囲殲滅するかのような身振りをする一計を案じ、賊たちを撃退した。
・孫堅がいたなら、のちの曹操の台頭や三國鼎立も違った形になっていたかもしれないと思わせる大人物だった。


【孫権 (そんけん)】
孫 権(そん けん)字は仲謀。呉を建国し初代皇帝に即位した。長命で帝位に昇る相といわれた通り、三国時代の君主の中で最も長命だった。
なお、よく並べられる曹操、劉備とはおよそ一世代下の人物にあたる。

逸話/人物
・孫権は、背は高いが胴長短足で、角張った「あご」と大きな口に紫髯(赤ひげだとされる)の持ち主だったと云われる。
・時勢を読んだ外交を始めとして思慮深さを見せる人物であったが、一方で感情のままに行動を取り部下から諌められた逸話が複数残っている。
・部下の意見をよく聞き入れ、決断力にも優れたとされる。
・「人を忌み嫌うことが多く、刑罰によって人を殺すのに果敢であった」と、陳寿が評しているが、後継者問題により、多くの将軍や官僚が死に追いやられ、或いは追放されたことに起因するとされる。
・後継者としていた孫登が33歳で早世してから、徐々に孫権の治世には陰りが見え始めた。佞臣とされる呂壱を重用したり、後継者問題で太子を擁護した丞相の陸遜を憤死させたり、王表という神を信じて福を求めたりするなど老害が目立った。


【孫策 (そんさく)】
孫 策(そん さく)字は伯符。人々は、孫策の勇猛さから、覇王・項羽の名を借りて“小覇王”と呼んだ。

逸話/人物
・父親が死んだときはまだ十七歳で、後を継ぐための国の地盤が十分ではなかったため、一時は袁術に吸収されていた。
・容姿端麗で、人との会話を好み闊達な性格であったと言われる。
・陳寿は「孫策は傑出した英気を具え、その勇猛さと鋭敏さは並ぶ者がないほどであり、優れた人物を登用して用い、志は中国全土を圧倒するほどだった。」と評している。
・太史慈は孫策に一騎打ちを挑み、孫策もこれに応じた。数合打ち合ったが勝負はつかず、引き分けに終わった。正史において一騎打ちという事象は珍しいものであり、さらに頭首がそれを受けたというのは稀有な事例である。
・小説『三国志演義』では、呉に現れた道士・于吉の霊により呪い殺されるという設定になっている。


【孫夫人 (そんふじん)】
孫 夫人(そん ふじん)孫堅の娘で孫策・孫権の異母妹。 日本に於いては孫尚香の名で広く知られているが、これは京劇で使われる名前である。

逸話/人物
・実在の人物ではあるが「正史」『三国志』において彼女に関する記述は非常に少ない。
・女性でありながら才気と剛勇さにおいて、孫策や孫権に匹敵したと言われている。
・彼女は劉備に嫁ぐ際、呉から大勢の官兵を率いており、また侍婢100余人はすべて刀を持っていた。おかげで、劉備は敷の奥に入るといつもびくびくしていたという。
・彼女は孫氏の名を笠にして法を守ろうとせず、自分勝手に振舞っていた。そのため劉備は法に厳格な趙雲ならばと思い、趙雲に奥向きのことを取り仕切らせた。
・呉へ帰国後の孫夫人の動向は、不明である。



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