三国無双武将辞書

【し】 5件

【司馬 懿 (しばい)】
司馬 懿(しば い)字は仲達。魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。西晋が建国されると、高祖、宣帝と追号された。

逸話/人物
・司馬懿は苛烈な性格であったが感情を隠すのがうまく、内心激しい怒りを抱いている時も表面では穏やかに振る舞ったという。
・孫権勢力を巻き込んで関羽を倒す事を献策し、見事に成功を収めたので、関羽の死因に関わっていると言える。
・中国で売られている三国演義トランプでは、諸葛亮と並んでジョーカーになっている。
・司馬懿はいわゆる軍師の代名詞である諸葛亮とよく並べられるために、「軍師」と冠されることが多いが、史実では参謀というより将軍としての活躍のほうが遥かに多い。
・曹爽が曹叡の墓参りに行くために留守にした機会を見計らって、司馬懿はクーデターを起こす。曹爽本人やその一族に対しては、食事の買い出しすら出来ぬほどの監視下において軟禁したが、結局は一族郎党皆殺しにした。こうして司馬懿は魏国における全権を握ったものの、自身は同年に死去した。後に孫の司馬炎が魏より禅譲を受けて皇帝となり、魏が滅亡した。


【周瑜 (しゅうゆ)】
周 瑜(しゅう ゆ)字は公瑾。孫策・孫権に仕えた。妻は小喬。

逸話/人物
・周瑜は知略・武略に優れる名将であり、寛大で人の心を掴むことが得意だった。
・孫策とは義兄弟の契りを結んでいる。
・二一歳の若さでデビューし、『美周郎』とアダ名された。
・『心を通わすことができるのは君と魯粛だけだ』と孫権から絶大な信頼を得ていた。
・江陵を攻めた時、周瑜は流れ矢を受けて負傷し、それが病へとつながり、惜しくも三六歳で病死した。
・小説『三国志演義』での周瑜は諸葛亮の引き立て役にされてしまったが、文武百官の信任厚く、類い稀な軍略の才をもっており、まさに名将であった。
・小説『三国志演義』では自信過剰、自尊心が高いといったキャラだったが、「程普は若輩の周瑜を度々侮辱していたのだが、周瑜はあくまで膝を屈してへりくだり続けたので、その謙譲さに程普もとうとう感服し、尊重するようになった。」という話から、人柄がうかがえる。


【祝融夫人 (しゅくゆうふじん)】
祝融 夫人(しゅくゆう ふじん)は小説『三国志演義』に登場する架空の人物である。 南蛮の王として登場する孟獲の妻。祝融神の末裔とされる。祝融(しゅくゆう)は、中国神話の神。

逸話/人物
・夫である孟獲が諸葛亮との戦に何度も負け、それに怒った祝融が夫の代わりに蜀軍と対峙することとなる。 彼女は男勝りの性格で飛刀(投げナイフ)の使い手とされ、蜀将である張擬と馬忠を一騎打ちの末に捕らえる。これに困った諸葛亮は、魏延と趙雲に策を与えることにし、わざと負け祝融を怒らせて、逃げる魏延を追いかけさせたため、途中で罠に掛かって捕らえられてしまう。その後、孟獲の申し出により人質交換として自軍に戻される。最終的に、蜀への忠誠を孟獲と共に誓うこととなる。


【小喬 (しょうきょう)】
小喬(しょうきょう)正史では小橋。大喬の妹。周瑜の妻。

逸話/人物
・『三国志演義』上では「江東の二喬」と呼ばれ姉の大喬と共に絶世の美女とされている。赤壁の戦いで曹操が大喬と共にはべらせたいことを諸葛亮から聞いた周瑜は大変怒り、戦いを決意させたとされている。ちなみに姉ともども、夫は早世してしまう。
・正史では橋公の娘で周瑜の妻としか記述がない。
・孫策が周瑜に「『江東の二喬』は確かに美女だが、我等を夫にできる二人も幸せであろう」と言ったという逸話もある。


【諸葛 亮 (しょかつりょう)】
諸葛 亮(しょかつりょう)字は孔明。必賞必罰を実践し、数々の発明品を世に出した、三国時代の蜀漢の政治家・武将・軍略家・発明家。

逸話/人物
・三国志演義では戦争の名人であった語られているが、正史三国志の著者、陳寿は「臨機応変の手腕に欠ける人であった」と評している。
・陳寿の評では「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する」と最大限の評価を与えている。
・諸葛亮の事跡に関して、『三国志』と『演義』では、赤壁に於いてずいぶんと活躍が異なっている。
・一国の最高権力者であったにもかかわらず、彼の死後 彼の個人的財産は、無に等しかった。その事だけを取り上げても彼がいかに国に尽くし義に生き義に死んでいったか推測できる。



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