三国無双武将辞書

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【袁紹 (えんしょう)】
袁 紹(えん しょう)字は本初(ほんしょ)。河北四州を支配するまでに勢力を拡大したが、官渡の戦いにおいて曹操に敗れた後、病死した。

逸話/人物
・『三国志』の記述では、概ね決断力の無さや器量の不足を指摘されている。
・袁紹は生前に明確な後継者を選んでいなかったので、彼の死後に災いして、袁氏勢力は長男の袁譚派と末子の袁尚派に分裂し、滅亡していった。
・四代に渡って有名な役職に就いていた名門袁家の御曹司であったが、彼はその名に恥じない威風堂々とした好人物だったと言う。
・官渡の戦いで曹操と袁紹の勢力差が逆転したといわれることが多いが、曹操も袁紹存命中は侵攻しなかったため、敗戦後もその国力・勢力は曹操を上回っていたと思われる。
・前半の快進撃を見る限り、将として人並み優れたものはあったのではなかろうかと思われる。

【夏侯 淵 (かこうえん)】
夏侯 淵(かこう えん)字は妙才。正妻は曹操の妻の妹。軍の拠点間の迅速な移動や奇襲攻撃や兵糧監督などの後方支援を得意とした。

逸話/人物
・夏侯淵はしばしば戦勝を収めているものの、曹操は「指揮官には勇気ばかりではなく、時には臆病さも必要で、行動するときは常に知略を用いよ」と戒めていた。
・小説『三国志演義』では、早くから登場し、剛直で弓術に長けた猛将として描写されている。銅雀台落成の余興では、的に当たった4本の矢の真ん中を射抜く腕前を披露。
・夏侯淵軍が馬超を戦わずして逃走させ(諸事情はあるが)、さらに韓遂を撃破し、韓遂に味方する蛮族をも降伏させた。このように夏侯淵は涼州の馬超・韓遂らの勢力を壊滅させて、涼州を平定した。

【夏侯 惇 (かこうとん)】
夏侯 惇(かこう とん)字は元譲。前漢の高祖に仕えた夏侯嬰の末裔という。『演義』では夏侯淵の兄。曹操からの信頼が最も厚かった武将で、車への同乗や、曹操の寝室への自由な出入りが唯一許されていた。

逸話/人物
・14歳の時、学問の師を侮辱した男を殺し、荒い気性を持つ人として知られるようになる。
・性格は清潔で慎ましやかであり、お金が余れば人に配り、日頃から学問や鍛錬に励んだという。
・『三国志』では夏侯惇の前線での武勲はあまり書かれておらず、むしろ民政官や留守司令官としての功績が多く記されている。
・歴史書を紐解くと、前線での戦いは苦手としながらも後方での実務を得意とした武将であったとされる。

【関 羽 (かんう)】
関 羽(かんう)字は雲長。見事なあごひげ、ほほひげをたくわえていたため「美髯公」などとも呼ばれる。

逸話/人物
・信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。
・関羽は部下には優しいが、同格の士大夫を見下すという悪い癖があり、このことが後に糜芳と士仁の寝返りを招いた。
・武を誇る一方で、学問を好み、『春秋左氏伝』をほぼ暗誦出来る等、文武両道の面を持っていた。
・張飛と並んで一万の敵に相当するといわれているが、一方では、「自分の勇名を恃んで猪突猛進してしばしば兵を失う」(蜀書・廖立伝)という批判もあった。
・小説『三国志演義』では、主人公的存在だけあって、史実に比べ、活躍は非常に華々しいものとなっており、創作の部分も多い。

【甘寧 (かんねい)】
甘 寧(かん ねい)字は興覇。若い頃任侠の道を進み、ならず者を集めて頭領を務め、傍若無人に振舞っていた。そのうち書物を読み改心した。曾孫の甘卓は東晋に仕えた。

逸話/人物
・羽飾りを背負い、鈴を常に携えていたので、民衆は鈴の音を聞いただけでそれが甘寧だと分かったという。
・粗暴で殺人を好んだものの、爽快な人柄で優れた計略を持ち、財貨を軽んじて士人を敬い、手厚く勇者たちを育てたので、彼らの方でもまた役に立ちたいと願った。
・蘇飛や呂蒙、そして孫権の例を見ても恩義には命がけで報いる好漢といえる。
・曹操が濡須へ侵攻した際には、甘寧は前部督となり、百人ほどの選抜隊を組むと曹操の陣営に夜半奇襲をかけた(このとき、渋る部下に対し「孫呉の将軍である俺ですら死を覚悟しているのに、お前らがそうでないとは何事か」と号をかけ、隊を鼓舞したという)。これにより敵兵は混乱し、動揺して引き下がった。孫権は喜び、「孟徳(曹操)には張遼がいて、私には甘寧がいる。丁度釣合が取れているな」と甘寧の武勇と豪胆さを賞賛した。

【許 褚 (きょちょ)】
許 褚(きょ ちょ)字は仲康。身長8尺(およそ184cm)で腰が10囲(およそ120cm。想像するに相撲の力士の様な体型と思われる)容貌は雄々しく毅然として、武勇は人なみはずれていた。
曹操が淮・汝の地方を支配すると、許褚は軍勢を挙げて曹操に帰服した。

逸話/人物
・許褚の性格は慎み深く、誠実かつ重厚で無口であった
・許褚は力が虎のようで、ただ痴(頭の回転が鈍い)であったので、「虎痴」と呼ばれていた。
・賊と和睦を結び、牛と食糧を交換することになった時、、牛が逃げてしまったのを、許褚は片手で牛の尾を引っ張って、百歩余りも連れてきた。この噂を聞いたものはみな彼を恐れるようになったという。
・曹操が亡くなると、許褚は号泣して血を吐いた。それほど忠義の士だったと言える。

【黄蓋 (こうがい)】
黄 蓋(こう がい)字は公覆。郡の役人から孫堅に従い、孫策、孫権に仕えた宿将である。

逸話/人物
・若い頃に父が亡くなり、貧しい生活をしていたが、常に大志を抱き、上表文の書き方や兵法の勉強に勤しんでいた。やがて孫堅が挙兵するとこれに従い、荊州南部の反乱や董卓討伐に活躍した。
・統治が困難な地域には黄蓋が長官として任じられ、法令に厳格な処罰をおこないつつも、強きを抑えて弱きを助ける統治を行ったため、どの地も無事に平定され、土着民族たる山越までもが信服し、人々は平穏に暮らしたという。
・黄蓋が病没した際、 呉の人々は彼を偲び、肖像画を描いて季節ごとにお祭をしたという。住民に相当慕われていたことがわかる。
・正史によれば黄蓋は山越討伐で度々功を立てた異民族対策のエキスパートであり、その後も武陵の少数民族対策で活躍している。
・正史では「苦肉の計」は行われていない。

【司馬 懿 (しばい)】
司馬 懿(しば い)字は仲達。魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。西晋が建国されると、高祖、宣帝と追号された。

逸話/人物
・司馬懿は苛烈な性格であったが感情を隠すのがうまく、内心激しい怒りを抱いている時も表面では穏やかに振る舞ったという。
・孫権勢力を巻き込んで関羽を倒す事を献策し、見事に成功を収めたので、関羽の死因に関わっていると言える。
・中国で売られている三国演義トランプでは、諸葛亮と並んでジョーカーになっている。
・司馬懿はいわゆる軍師の代名詞である諸葛亮とよく並べられるために、「軍師」と冠されることが多いが、史実では参謀というより将軍としての活躍のほうが遥かに多い。
・曹爽が曹叡の墓参りに行くために留守にした機会を見計らって、司馬懿はクーデターを起こす。曹爽本人やその一族に対しては、食事の買い出しすら出来ぬほどの監視下において軟禁したが、結局は一族郎党皆殺しにした。こうして司馬懿は魏国における全権を握ったものの、自身は同年に死去した。後に孫の司馬炎が魏より禅譲を受けて皇帝となり、魏が滅亡した。

【周瑜 (しゅうゆ)】
周 瑜(しゅう ゆ)字は公瑾。孫策・孫権に仕えた。妻は小喬。

逸話/人物
・周瑜は知略・武略に優れる名将であり、寛大で人の心を掴むことが得意だった。
・孫策とは義兄弟の契りを結んでいる。
・二一歳の若さでデビューし、『美周郎』とアダ名された。
・『心を通わすことができるのは君と魯粛だけだ』と孫権から絶大な信頼を得ていた。
・江陵を攻めた時、周瑜は流れ矢を受けて負傷し、それが病へとつながり、惜しくも三六歳で病死した。
・小説『三国志演義』での周瑜は諸葛亮の引き立て役にされてしまったが、文武百官の信任厚く、類い稀な軍略の才をもっており、まさに名将であった。
・小説『三国志演義』では自信過剰、自尊心が高いといったキャラだったが、「程普は若輩の周瑜を度々侮辱していたのだが、周瑜はあくまで膝を屈してへりくだり続けたので、その謙譲さに程普もとうとう感服し、尊重するようになった。」という話から、人柄がうかがえる。

【祝融夫人 (しゅくゆうふじん)】
祝融 夫人(しゅくゆう ふじん)は小説『三国志演義』に登場する架空の人物である。 南蛮の王として登場する孟獲の妻。祝融神の末裔とされる。祝融(しゅくゆう)は、中国神話の神。

逸話/人物
・夫である孟獲が諸葛亮との戦に何度も負け、それに怒った祝融が夫の代わりに蜀軍と対峙することとなる。 彼女は男勝りの性格で飛刀(投げナイフ)の使い手とされ、蜀将である張擬と馬忠を一騎打ちの末に捕らえる。これに困った諸葛亮は、魏延と趙雲に策を与えることにし、わざと負け祝融を怒らせて、逃げる魏延を追いかけさせたため、途中で罠に掛かって捕らえられてしまう。その後、孟獲の申し出により人質交換として自軍に戻される。最終的に、蜀への忠誠を孟獲と共に誓うこととなる。

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