トライシクル

□見えないうた
2ページ/4ページ



暗闇の中、手探りで蛍光灯のスイッチを探して壁伝いに歩いてゆく。『ただいま』への応答もなし。父親は今日残業らしい。パッと明るくなったリビングのソファには朝に放り出しておいたままの新聞紙。

キッチンの流し台の水切りバットに溜めてあった洗い晒しの食器を片付け、冷蔵庫の中を覗く。
あんまり食欲はない。

ため息をひとつついて、電気を消し二階へと上がった。

そう広くはない自室のドアを開けると、開きっぱなしの窓から涼しい夜風が流れ込み薄いカーテンがふわりとなびくのが目についた。


「……?そういえば朝開けっぱなしだったな」


さして気にすることなくベットに寝転がり、何もせずに天井を見つめる。
いつからかはわからないが、すでに日課と化していたそれは日に日に奥深さを増していった。


"とにかく、知ろうとすることが哲学の定義だ"
なんて誰かが言ってはいたが、矛盾だらけのこの世の中で通じるハズもなく。自分の哲学は、真理の存在を否定することから始まるのだ。


そうやって考えに考えふけってゆくだけ。いわゆるメディテーションに近いものと言えるかもしれない。

世界情勢から最近の流行に至るまで、とにかく何もかもが自分の哲学の餌食となるのだ。貪欲な思考への嗜好は物事を自己本位に分解し、収まらないアタマの空腹を少しずつ満たしてゆく。
とにかく考えることが生きがいであり存在意義であるのだ。そして自分の性格上、人とのコミュニケーションの中で思考のための情報を得やすいと考えたためにたまたま多重人格を形成しただけであって。

本当のことを言えば、こんな自分を異常者だとは思わない。言論や思考の自由が推進される昨今の世界ではごく普通にいる人種だとは思う。けれども、"世間一般的常識の範囲内"から見れば異常者なのだ。
"世間一般的常識"が蔓延するこの社会で生きてゆくためには、異常者のレッテルを何としてでも避ける必要がある。たとえ存在を認めてもらえたとしても、存在を許してもらえるとは限らない。
その一端は社会的にも未熟な幼い子供達の間でも見受けられる。

大人達よりも感受性の強い子供達は、"異常"に対するアンテナが敏感らしく、また、純粋に素直であるために、異常者を排除したがるそうだ。
子供時代に苦痛を味わった自分もよく知るその事実は、10年経った今でも健在だろう。

だから、隠すのだ。
そして普通を装い、外界と交信して情報を仕入れて持ち帰り、家で仮面を脱いで本性がそれを吟味する。
ただ、時間の許す限り。


そうして夜も更けてゆく。いつもどおりに、ただ無常に。


まるでこの世を皮肉るかのように智の限界を求めたが、いつのまにか短針が2を指し示していることに気が付く。
時が経つのが最近早く感じられるのは、気のせいじゃなかった。

世の中からひとりだけ取り残されたような感覚に陥りやがて自業自得だということに気づくまで、ずっと考えることだけに集中していたのだ。


「いつまでこんな下らないことが続くんだろう……」


無意識のうちにつぶやかれた言葉は誰かの耳に届くこともなく、音もなく消え去った。
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ