トライシクル

□マンシンソウイ
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骨まで凍りつかせるような厳しい寒さも、3月に入ると和らいできたらしい。最近は穏やかな陽気が街を柔らかく包み、少し早い小春日和を感じさせる日がよく続く。
だがさすがに夜となれば話は別だ。春がもうすぐそこまで近づいているとはいえ、太陽が沈んだあとの世界は少し肌寒く、ひんやりとした空気が頭のてっぺんから足の指先まで覆っているようだ。まだまだ厚着は手放せないだろう。冷たくなった鼻先を、ガウンの首回りについているファーに擦りつけると少し温かい。

赤波市の中でもトップの高さを誇る高層ビル群の隙間に夕闇が見え隠れするその様子が、妙に切なく感じられるのは気のせいだろうか。なんてどこぞの俳人みたいなことを考えさせるほど、その焼け焦げた橙色は鮮やかに都会の街並みを染めあげていた。そんな美しいものがもうすぐ闇へと帰ってゆく、こんなにもの悲しいことなど滅多にない。

終わりかけた夕暮れを背に雑踏の中を歩く仁は、いつもの仲間達と共にある目的地を目指していた。周りを見れば仁達と同じような盛りのついた若者達が徘徊していて、その場所がもうすぐそこだということを遠回しに指し示しているようだ。彼らは上機嫌のまま、いつのまにかバーやキャバクラの店が立ち並ぶゾーンにさしかかっている。


「確か、あの曲がり角の先にあんのがJ.HUGだろ?」

「そのクラブって、ここら辺でけっこう有名なんだよな」

「マジすげえよな、あいつ。友達である俺達も鼻たけえぞ!」


仁達3人組は気分上々のまま広い通りの真ん中をのし歩く。エナメルのスニーカーや人気ブランドのシューズを履いたオシャレなつま先が向かう先は一点。
ざわめき立つ夜の街にたたずむようにして、ひっそりと掲げられた地下への案内板。"J.HUG"と書かれた文字はけばけばしい色の電光を放っている。
それは夜に舞う蝶達を甘い蜜で誘っているかのようにも見えた。


「ここか〜。よし、入ろうぜ!」


仲間達は好奇心と期待を胸に、未知の世界への階段を一段ずつ早足で降る。やがて外の世界の光が届かなくなるにつれて、仁達の心を煽る音楽はどんどん大きく響いてきた。

暗闇に映える緑色のレーザーが飛び交うサマは、まるでSF映画さながら。天井に釣り下がっているミラーボールは、レーザーはおろか色とりどりの眩しいライトや光という光全てを乱反射させる疑似惑星の役割を果たしている。
全てを飲み込もうと勢いづいた人々の、狂乱の宇宙。入り乱れる熱気と興奮だけがこの世界の空気を構成し、それ以外の陰気なもの全てを拒絶するかのよう。それを派手に彩ってくれるのは、耳をつんざかんばかりに鳴り響くヒップホップの洋楽と甘ったるい酒の匂い。
人生の楽しいことだけをぎゅうぎゅうに詰め込んだ小箱のような素敵な場所、それがこのクラブだった。


「なあ仁、もうすぐ始まるんだろ!?」

「何だって!?」

「だーかーらー!!もうすぐ始まる時間なんだろって聞いてんだ!!」

「ああ、たぶんな!!」


歓声と爆音がかき混ぜた空間の中では、仁達の声もなかなか聞き取ることができないのも仕方がない。
だがそれすらも気にすることなく、彼らは踊り狂う人込みの間を縫うようにして室内の最奥に向かう。

暗闇に潜むようにして存在する場所。そこには周りより1mほどの高さのある開けた小さなステージが用意されていた。仁達が群がるように最前列に並んだ瞬間、フラッシュのようなスポットライトがステージを照らし出す。後光の差す中その輝かしい全貌を現したのは、仁達が今日一番の目的として見に来た人物であり、よく見知る友人でもあった。


「よ〜〜うこそ、クラブJ.HUGへ!!今宵も君達をアツい渦へと巻き込んじゃうよ〜!!エーンド、サプラ〜イズ!!何と今日は期待の新人DJ.ケンが今夜を最高の時間に仕立てあげてくれるぞ!!」

「キャーッ!!」

「おお〜っ!!」


陽気なアナウンスの紹介を受け、ひしめく人達の歓声を一身に浴びているステージの中央に立つのは、高校生という若さにしてクラブのDJを務める少年。何を隠そう、彼は同じ平田高校に通い同じクラスに所属している仁達の親しい友達なのだ。今日仁達がここへ招待されたのも、彼が自身のデビューを一番仲の良い友達に見せたかったため。期待通りにやって来てくれた仁達と目が合ったDJ.ケンは、彼らにしかわからないように一瞬だけのウインクを送る。
耳のシルバーピアスが目立つような明るさの短い茶髪をさっとかき上げる最中、その腕の間から彼の顔が年相応の少年っぽいはにかみを含んでいるのが見えた。ダボダボだがどこかスタイリッシュなストリート系の服装に身を包んだ彼は、仁達のよく知る友人そのもの。だが今目の前にいるのは、いつも見るような不良高校生ではない。新人DJとして舞台に立つ大物だ。


「今夜晴れてここでデビューする、DJ.ケンでっす。緊張すっけど、皆と一緒に盛り上がっていきたいと思いま〜す。よろしくっ!じゃあさっそく、テンション上げていこうぜ!!!」


威勢の良いかけ声に伴い、胸が爆発しそうなくらいの轟音が室内に鳴り響いた。
抑えていた理性やリミットは全て吹っ飛び、鳴り止まぬ音楽に身を任せる人々。体を自然に揺さぶるリズムは音楽だけから聴こえてくるわけじゃない。拳を天に突き出しテンポ良く跳ね上がる人々の地面を鳴らす音や、DJ.ケンの巧みな指先が生み出すスクラッチもまた、新たなミュージックを創り出しているのだ。最高潮に達した興奮と覚めやらぬハートビートは、雑念を追い出されて空っぽになったアタマをスピーカーに変えてゆく。あとはどうだ、アタマの中には耳を伝って入り込んできた熱いメロディが反響するだけ。
音楽だけが彼らを支配し、その快楽に酔いしれる夜はあっという間に更けてゆく。

華々しいデビューを飾ったDJ.ケンのステージは、まだ熱量の減らない日を跨いだ時間帯に無事終了した。
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