トライシクル
□定義と現実の秤
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仁は数学の中の『証明』という項目が嫌いだった。
頂点にいくつものアルファベットが並べ立てられた複雑な図形の、ある一部の合同だとか平行であるとかの理由を述べろという問題提起には、ほとほと困り果てて嫌いになった人も少なくない。現に仁もその中のひとりである。
だが、仁は問題を解いていく上で伴う苦難を悔やんで嫌いになったワケではなかった。
なぜ答えが出るまでの過程を、わざわざ文字式に表してまで証明しなければならないのだろう。
仁は黒板に書かれた白い方程式を見るたび、ため息をつくと共にそう思っていた。
答えが導きだされるのはごく普通の、当たり前である自然界の摂理のようなものだ。問題があれば必ず答えを見いだせるのは、ある意味絶対的な定義でもあり真理でもある。
ほっといても自然と答えを出せてしまうのに、どうしてイコールで繋げるまでの間を説明する必要があるのか。出てしまったものはしかたがないだろう。
そもそも証明が生まれたのは、大昔のギリシャの国だった。
結果的に役に立っても、それまでの計算の苦労を誰も評価してくれないとふてくされたギリシャの数学者達が、答えだけに満足いかずに導くまでの過程を厳密な論理で説明づけたそうだ。
自分達の満足度だけで未来の数学に『証明』というものが導入されるなんて、思いもしなかっただろう。ただの自己満でやっただけなのだから。
仁はノートすら広げていないラクガキだらけの机に視線を落とし、怪訝な顔でもう一度ため息をつく。
たかが自己満のために自然の摂理に逆らってしまったせいで、未来の学生達はこんなにも苦しめられているのは事実である。
まあ、本音といえば『証明』なんかめんどくさくてやってられないという、浅はかな考えにしかすぎないが。