トライシクル

□バイバイシンドローム
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上を見上げればため息をつきたくなるのも仕方がない。期待していた今日この日のために組み立てていたプランも、8割方これのせいでめちゃくちゃにされそうなのだから。

どす黒い雲に覆われ、今にも泣き出しそうになる空の表情は、とても不細工だ。
耳をすませば聞こえてくる地鳴りのような低い小さな雷鳴。と同時に西の空の方がパッと白光りする。
最悪だ。こんな天気だなんて。

高田温子は分厚い雲で埋め尽くされた陰気な空を見上げ、盛大なため息をつく。
せっかくの休日に、地元でも有名な観光スポットであるこの湖に来ているというのに。まあ天気も天気だから、辺りを見渡せばだだっ広い湖の岸辺には誰ひとりとして見当たるはずもなく。
ふんだんな水を静かにたたえた湖が、巨大な鏡のようにその身に陰険な表情を持った空模様を映し出しているだけで。

温子のとなりには相変わらず失恋から立ち直れていない意気消沈気味な相沢晴香の顔。まあ悪く言ってしまえば今の状況にピッタリな落ち具合というワケで。
職場でよく可愛いと噂も立ち、素朴な顔立ちの温子とは正反対だというのが、今の彼女からは微塵も感じられやしない。
まるで葬式直後のような陰鬱な雰囲気に飲み込まれそうになりながらも、温子は晴香を気遣って肩に両手を乗せる。


「ねえ、せっかくこ〜んなに広い湖に来たんだから、もっとはじけないと!」

「でも、こんな天気じゃあ……ねえ?」


確かに正論だ。そこまで言われたら、温子もそれきり無理矢理苦笑いすることしかできなくなる。
自分なりの精一杯の激励さえ、沈み込んだ晴香のオーラに引きずり込まれる始末。やれやれ、やはりこの天気じゃ……と薄暗い空を見上げた途端。

どこからか響いてくる雷のうなり声が、突如としてそのボリュームを一気に増したのだ。空高くで大きな崖崩れでもあったのかと思うくらいの、岩をえぐるような稲妻の音。
追い討ちをかけるように、灰色一色の重苦しい積雲を別つようにまばゆい閃光が一筋駆け抜ける。

そして何かの糸が切れたように、大粒の雨が一気に降り出したのだ。


「ああっ、雨降ってきちゃった!」

「最悪っ……!早くあっちの小屋に避難しましょ!」

「……うん!」


さっさと踏ん切りをつけた温子と晴香は、瞬く間にぐちゃぐちゃになった泥だらけの岸辺から逃げるようにして走りだす。

跳ね上がる泥水、雨足はかなり強め。

降りしきる大粒の雨はふたりと草木と大地を瞬く間にずぶ濡れにし、その体温を確実に奪ってゆく。湖面は打ち付ける大量の水滴によって歪み、ミルククラウンが数億個ぐらいあっても足りないと思えるほど激しく波打った。

せっかくのお気に入りの薄手のピンクのカーディガンがびしょびしょになろうと、履き慣れていたミュールが泥まみれになろうと、ふたりは必死に走り続けた。
雨粒の伝う長い睫毛の下から覗く渋茶色の眼が捉えるのは、ただ一点のみ。湖のほとりにほっ建てられた小さな木造小屋だけ。
このまま湖の向こう側に見える小屋に駆け込みさえすれば。

ふたりは全力で水溜まりの上を走る。走る。濡れた地面が何度ふたりの足を絡め取ろうとしようが関係ない。
嫌悪感さえ抱く自分達の不運をくじき、とにかく雨から逃れたかったふたりはただただ一心不乱に小屋目がけて走っていた。


だが、それは願ってもない出来事によってやむなく中断される。

まるで大きなフラッシュをたいたかのようなまばゆい目眩ましにふたりが目をつむってしまった瞬間。
地面を叩きつけるような短い轟音が辺り一帯に響き渡り、土砂降りのドロップ音を一瞬かき消す。
おそらく落雷だ。しかもかなり身近な……。
思わず短い悲鳴を上げてしまった温子は、とっさに自分の目をこじ開けて後ろの晴香に目をやった。


「晴…香…?」


振り向いた先にその姿はない。とっさに足元の水溜まりに視線を落とすと、その浅すぎる水面に顔をうずめるようにして、晴香が倒れ込んでいた。まるで石膏で固められてしまった石像のように、全く動く様子も見せずに。
頭が一瞬底冷えしたように血の気が引いてゆく。

頭上高くで鳴り響いた雷鳴。その直後に突然倒れて動かなくなった晴香。
刹那的な時間の中で起きた出来事を、冷えきった温子のアタマの中で、震える手を持って少ないピースを繋ぎ合わせてゆく。
そうして行き着いたひとつの可能性は、温子の絶望感と疑心によって否定された。


「晴香…?ねえ晴香!晴香!しっかりしてよ晴香!!まさか雷に打たれたっていうの……!?ねえっ……晴香ぁっ……!!」


かすかな呼吸すら感じられないその顔は、走っていた当時の切羽詰まった表情をそのまま残して青ざめていた。何度呼び掛けようがピクリとも動かない彼女の頬から血の気は感じられない。
それが意味するのは、彼女の死──


1時間前まではあんなに元気な顔をして、ふたりで楽しくおしゃべりしていたのに。晴香の失恋の傷を癒すために温子が提案したピクニックが、まさかこんな形で終止符を打たれようとは。これだと温子自身が彼女の死に携わっているようなもの。
ではもし出かけ先がこの湖じゃなかったら?むしろこんな計画なんて立てなかったら?彼女は死なずにすんだのか?

しかし、今の温子のアタマの検索エンジンは冷静という言葉を見つけることができなかった。雨にまぎれるかのようにワケもわからず涙を流すだけ。
友人の突然死なんて現実は重すぎて抱えきれない。


「晴香……晴香ぁぁぁっ!!」


体は、氷のごとく冷たかった。人形のように美しい表情を浮かべ、温子の震える腕の中。


「……完了、と」


――そして、その一連の様子を小屋の中から窓越しに観察していた者の存在は、誰も知らずに。
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