単発文置き場

□時計のハリ
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【一】

 これは今より昔の話。
 時は五つの大里と幾多の小里に忍の勢力が分断し、それぞれの土地の守護へと封じられていった頃へと遡る。
 その中でも今では途絶えた多くの血筋の内一つに、黒野ノ谷の水坑治という一族があった。

 水坑治の民はその名の示す通り水遁術に優れ、守りにおいて結束堅く他族と争う事を避け、都から遠く離れた谷に身を潜めるようにして静かに暮らしていた。
 第一の忍界大戦においては縁ある他里を助くるのみであり、戦勝による名声を得る事もなかったが、本拠は戦火を免れ死傷者も極めて少なく、結果として周辺のどの一族よりも早い立ち直りを見せる。
 その後は力ある者の庇護を求めた近隣の豪族諸氏に仕え、富を蓄え益々谷間の民は豊かとなった。
 だがその繁栄は長くは持たず、再び起こった大戦には水坑治の民も参戦やむ無く、善戦虚しく戦に敗れた後に一族は滅亡しその名も歴史書から姿を消す。

 取り残された財を狙った賊が押し入り、荒廃しきった里の忘骸はその近隣に住む者達の記憶からも半ば消え去って久しい。
 今では古戦の歴史の名残を求むる探求者がごく稀に足を踏み入れ、瓦礫に積もる土埃を白筆で払うのみとなる。
 僅かに残る末裔達も今は無名の同胞となり、忘れ難き故郷を思い免れ得ん栄枯盛衰の定めに陰ながら泪す。

 歩みし路を振り返りて、一人のもののふは省みる。
 時勢の針を押し返す程には、我ら水坑治の流れ及ばず。
 されど潰えた流れは地に染みて、奥底にひたと止まるなり。
 また何時の日か、この路の先にて相見えんと。


 その結びの言葉によって締め括られた、薄手の浅葱色した軍記を吐息と共に閉じ、面のささくれ立ったテーブルに置いた男は仰け反るようにして一人掛けのソファーへと沈み込んだ。
 伸ばしきりの長く黒い髪が深い皺の刻まれた眉根の間へと滑り落ち、閉ざされた瞼の脇に影を差し掛け疲労の色をより濃く見せている。
 しかしながらその口許は満足げに僅かであるが弛められ、瞑目のままに先程まで惹き込まれていた世界を行きつしているようであった。
 暫しの間を置いて橙光を柔らかく広げる筒傘のランプのみが灯る、こじんまりとした応接間に半ば溶け込み掛けた男は手を伸ばし、ここへと腰を落ち着けた時から放っておかれたままのグラスを手に取る。
 褐色の手に収まったグラスは室温に馴染んでおり、注がれた水は温んでいたが男は構わずそれを飲み干した。
 空となったグラスの戻された横には程同じ高さの彫像が置かれており、くすんではいるが滑らかな表面は暗橙の色に鈍く染まっている。
 その面を磨き上げた手の持ち主は今は向かいで座したまま眠りに落ち、その胸は静かに浮き上がり沈み下ろすを繰り返す。
 ほんの僅かばかりの幼さが残る、頬の丸みにも淡い光が照り映え、差し向かいの男の目を捕らえて止めたが、やがてその視線は振り切るように壁掛けの丸時計を仰ぎ見た。
 装飾皆無の盤上の針は、じき表に人通りの出始める時刻である事を無音の内に告げている。
 灯りはそのまま、横向きに深く背凭れへと身体を押し付け、男は常である浅い眠りへと意識を預けるよう目を閉じた。
 
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