単発文置き場

□下り坂スタートライン
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 幾つもの源流が注がれ、見渡せぬ程広大な面積を誇る湖があった。
 そのほとりには大小合わせた町が点在し、互いに湖上を船で行き来しながら静かな山の暮らしをしていた。

 今から三十年程前、都から来たという商人が一つの町を端から端まで丸々買い取った事がある。
 当時、町と言うよりも干上がり掛けた寒村然としていた場所の住民は、目の前に積まれた金の山にさほど時間も経たない内に自らの土地を手放し去っていった。
 さしたる財産も持たぬ者達は皆、稼ぎの一生分に近い金の現物を目の当たりに見た威力には抗えなかったからだ。

 入れ替わるように大人数の人足達が大量の資材と共に町へと入り、放棄された家々を拠点としながら道を均し更に山へと分け入って行った。
 近隣の町の住人は幾ばくかの不安を抱きながらも、時折届けられる物珍しい付け届けにほだされ、金の有り余る都の商人の道楽だろうと遠巻きに眺めていた。
 それからしばらくの間はやれ、実は山奥に埋め隠された財宝を掘り起こしているだの、秘密裏に落ち延びてきた亡国の姫君を匿っているだのと噂ばかりが流れたが、実際の所は誰が見た訳でもなく確かめようがなかった。

 やがて数ヵ月が経ち、新たに訪れた荷運びの一団から事の真相を、渡りの船を出した者達が伝え聞く。

 あの町を買い取った商人には、壮年に差し掛かってから迎えた妻があったそうだ。
 端から見ても仲睦まじかった二人だが、元より身体の丈夫でなかった妻は昨年の流行り風邪をこじらせ亡くなってしまった。
 残された商人は妻が生前に幾度も見てみたいと言っていた湖を思い出し、その程近い場所に位牌を置いて供養をしようと思い立った。

 と、大体そのような話を都から来た者達は美談掛かった口調で語るのを、土地の者は何とも言えないままただ聞いていた。

 それから数日後に親族を伴った商人が湖を訪れ、一帯の名主や僧が呼ばれての法要が執り行われたそうだ。
 その後も毎年のように商人は妻の命日にはこの湖を訪れていたが、十年前にその当人も亡くなった今では供養の人の足も絶えて久しいという。



 五月晴れの強い日差しを照り返す湖面を、ここまで案内してくれた船頭の小舟がゆったりと遠ざかって行く。
 道すがら聞くとも無しに聞いていた昔の話に、そういえば当時はその逸話をなぞらえた唄が流行っていたのを思い出す。

 時代の流れの感傷に浸り掛け、だがそもそもその美談に関わる者こそ、俺がこんな山中まで分け入る元凶であった事に我に返った。
 苔色に半ば覆われた船着き場から見上げる斜面には、勢いよく茂る野草に埋もれた坂がある。
 逆光に影になった細長い建物の姿。
 小さな櫓の上、そこに二つの位牌が並び納められているという。
 
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