log・小話2

□雨降りに恋10題
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雨上がりと君の笑顔



 一瞬身を引きかけて。動揺したこと自体に動揺したような様子で、青い瞳が波立つ。辛うじて踏みとどまったその場所で、彼は軽く唇を噛みしめた。

「おい」

 押し殺した声が呼ぶ。振り払うことも逃げることもせずにいてくれる、それが何よりも嬉しい。掌に感じる微かな震え。呼吸と鼓動。
 謝罪の言葉がこぼれかけた。

 ……ごめんな。

 急に避けたりして。びっくりさせただろうか。悲しませただろうか。
 口に出してしまいそうだったけれど。そんなことを彼が認めるはずがない。きっと、侮辱にも近いと感じるはずだ。
 だから、ただ抱きしめていた。
 少しの間、身じろぎをしたり忍足の背中越しに視線をさまよわせたりしていたけれど。微かな舌打ちを最後に、跡部は大人しく腕の中におさまってくれた。

 ああ。

 帰したくない。
 離したくない、な。
 雨の日くらい一緒に、どころの話じゃない。晴れだろうが曇りだろうが、今みたいな夜に差しかかる時間だろうが。この腕の中に居てほしい。他の誰にも、こんな拗ねたような照れたような顔を見せないでほしい。
 こんなにわがままになるなんて思わなかった。このまま許してもらってしまったら、一体どこまで欲しくなってしまうか分からない。
 日はすっかり暮れてしまった。気づけば、雲の去った空には星が覗いている。この分なら、明日はきっとよく晴れるだろう。
 らしくもなく、窺うような瞳が至近距離に見上げている。現状、忍足の行動自体が相当にらしくないので、対応を決めかねているのだろう。
 跡部の髪も瞳も、星の光にさえこんなに輝く。色素の薄い肌までも。
 それはただの事実のような気もするし、
 想いの通じ合った喜びがそう見せるのかもしれなかった。
 彼だけではない。天気が悪いくらいで全てを重苦しく感じていた世界が、なんて軽やかに、眩しい。頭の構造が単純すぎて、自分で笑ってしまいそうだ。

「……お前、そんな顔できるんだな」

 不意に跡部が漏らした一言で、止まっていた時間が動き出したかのように感じた。

「え、そんな緩んどった、俺」
「お前がにやけてんのはいつものことだが。……そんな、もの欲しげな顔が素直にできるんだな」

 そんな、と言いながら。窮屈そうに伸ばされた彼の指先が、忍足の頬を一瞬つまんで。ぐ、とつねると言ってもいい力を込めて離れていく。

「できるんなら最初から、……」

 微かに眉間にシワを寄せた跡部の言葉は、消え入るように途切れた。小さな溜め息とともに、胸元を押し返される。それなりに強い力だった。でもそれさえ、力加減を失うほど、動揺しているようにも見える。
 渋々傘を畳みにかかった。珍しく余裕のなさそうな跡部を、もう少し見ていたい気もしたけれど。
 薄暗さも手伝って、雫の滴る傘に多少苦戦した。ようやくコンパクトになったそれに、なぜか跡部が手を伸ばす。不意を突かれる形になり、傘は簡単に奪われてしまった。

「貸せ。……帰るから」

 言い放った彼の視線は、足元の水溜まりに落ちている。どこかつまらなさそうな顔で。
 雨なんてもう降っていないのに。
 黙って見返していると、不機嫌そうな舌打ちがもうひとつ。

「返しに行く。……お前が取りに来るんでもいいが」
「……っ」

 一拍遅れて理解した。飲み込みが遅いと、またどやされそうだ。

 これは、彼に会いに行くための鍵。
 理由もなく訪ねたり、名前を呼んだり、そんなことさえできない俺に与えられた鍵だ。

 自分は、ずいぶんと情けない顔をしているだろう。言葉も出ないし、口ばかりがパクパクと動いて、まともに返事もできていない。
 彼が呆れたように、そして少しだけ、満足げに笑う。
 忍足にはただただ眩しく見えるのだが。彼としては一枚うわてであるつもりなのだろうか。
 

 きっとこれから何度でも思い出すに違いない。
 雨の夕暮れにも、コートに照りつける日差しを感じる昼日中にも、星降る夜にも。どんな微かな光さえ反射して輝く、明るい色の瞳が自分だけを映して細められるこの瞬間を。

 雫の落ちる傘の僅かな重さと冷たさと、触れた手の熱とともに。


  end.
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