Wants 1st 番外SS
□Original TitleV
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42.easy in mind
Side:Zen
身体が重い――というか、関節が痛い。
黒板一面に数字ばかりが並ぶ様子を見ているうちに、集中力の切れた俺は、いつの間にか眠ってしまったらしい。
チャイムの音と共に目を開ければ、周りはざわめき立っていた。
「漸、寝不足?」
「……いや」
「まぁ、今日の所は確かに難しかったね。俺も半分くらいしかわかんなかったよ」
苦笑する瑞貴に「また夜、翼に教えてもらおう」と言われ、俺は頷く。
勉強道具をバッグに詰め込む瑞貴を見て、俺もさっさと片付けねぇとと頭では思うものの、身体を動かすのが酷く億劫だ。
が、何とか気持ちを奮い立たせて身を起こす。
……あぁ、やばい。多分今、熱が出てる。
そう自覚して、俺は密かに溜息を吐いた。
体調を崩して嬉しいヤツなんかいないだろうけど、俺は特に、こうなる事が心底嫌いだった。
とにかく苦しいし、眠れない。
やり過ごし方がわからない。
不安になる。
「熱を出す」という状況は、そんな感覚的な記憶と共に俺の中に根付いていた。
まぁ今は、前ほど辛くは無いだろうけれど。
行き場所が無くて雨に打たれながら回復を待つ事も無ければ、普段の仕返しとばかりに絡んで殴ってくるヤツもいねぇだろうし。
普通に家で――同じ建物内で巳弘が働いているとわかっている、あのバーの自室でやり過ごす夜なら、きっとそれ程辛くはないはずだ。
自分の中でそう結論付けながら、担任が始めた帰りのHRの声を遠くに聞いていた。
とりあえず、早く学校を出たい……
安心出来る場所に、帰りたい。
「ね、漸。何か変じゃない?」
帰り道。
陽が今日は“白”で活動するとかで、俺は瑞貴と一緒に歩いていた。
いつも通り、主に瑞貴がしゃべって、俺が相槌を打つ。
そんなやりとりをしているつもりだったけど、途中不自然に会話を切った瑞貴は、顔をしかめながら俺を見つめてきた。
「……変て?」
「何か、顔色悪い気がする」
「……」
昔の癖が付いているのか、本調子でない事を無駄に隠そうと俯いていたが、よくよく考えれば相手は瑞貴なのだ。
実際学校を出てから、一分毎にしんどくなってきている。
俺は諦めて、顔を上げた。
「体、だるくて」
「え?」
瑞貴は俺の顔を見ると目を見開き、手を額に伸ばしてきた。
「漸、いつから?」
「……なに」
何かを咎められているという事はわかったが、思考が霞みがかっていて、適当な返事しか出来ない。
と、瑞貴は俺の腕を掴んで、自分の肩に回させた。
「ほんとに、漸は……。もっと顔に出してよ、気付かなかったじゃないか」
「……」
「辛いと思うけど、急いで帰ろう。すごい熱が出てるよ」
支えてもらって、少し楽になる。
やっぱり瑞貴は優しいな。
俺が弱っても、ニヤニヤしたりしねぇし。
ぼんやりとそう思いながら、いつもより荒く感じる呼吸を繰り返しつつ、見慣れた道を歩く。
もう少し――もう少しで、帰れる。
こういう時は、いつもより尚更帰れる場所があるのが有難い。
まるであの場所に帰る事が、一筋の光のように感じた。
「――はぁっ」
「漸……ゴメンね、もっと早く気付いてあげれば良かった」
何故謝るのだろう。
瑞貴はこうして、俺に手を貸してくれているじゃないか。
それだけでも十分感謝しているし、それ以上の事なんて思い付かない。
そう伝えたかったけれど、俺はただ首を振って、「ありがと」と呟く事しか出来なかった。
それから間もなく、バーへとたどり着いて。
控えめに鳴ったドアの鈴の音と、馴染みのあるバーの匂いに安心して、俺は何だか泣きそうになる。
おかしいな……普段はここまで、感傷的になったりしねぇのに。
「あれ? 巳弘さん今日……いないのかな」
不意にそんな瑞貴の声が聞こえてきて、俺は床に座り込みながら、どうにか返事をした。
「今日……モデル」
「え、そうだっけ?!」
確か数日前、今日は午前中から撮影が入っていると言っていたはずだ。
力を振り絞って辺りを見渡せば、バー内の所々に途中までオープン準備をした形跡がある。
きっと帰りは、夕方なのだろう。
「どうしよう……看病とか、どうしたらいいのかわかんないや……」
不安気にそう呟いた瑞貴は、その場に荷物を置くと、すぐに携帯を取り出した。
俺はその傍らに座り込んだまま、肩で息をし続ける。
「――あ、もしもし、翼? 漸がすごい熱出しちゃったんだ……うん、そう。俺看病なんてした事なくて……ね、どうしても外せない? 帰ってきてよ」
珍しく懇願するような声音でそう話す瑞貴の言葉を聞きながら、俺は不思議に思っていた。
どうして、翼が帰ってこないといけないのだろう……?
「……ほんと?! 良かった……うん、うん。それまで俺は、何をしてたらいい?」
あぁ、結構身体が重いな。
もう自分の部屋はすぐそこなのに、階段を昇る気力が出てこない。
蹲るようにフローリングに額を着けると、電話を終えたらしい瑞貴にぽんぽんと肩を叩かれた。
「漸、すぐに翼が帰ってきてくれるって。ごめんね、すぐに楽にしてあげられなくて」
楽にする方法なんて、あるのか?
翼が帰ってきたら、何か変わる――?
自分の思考が鈍っている事もあって、瑞貴が何を言いたいのかイマイチわからない。
そのままぼんやりと床の木目を眺めていると、瑞貴は足音を立てて二階に上っていき、間も無く戻ってきた。
その腕には、俺の部屋着が抱えられている。
「漸、行こう」
「え……」
不意に腕を引っ張られたが、俺は困惑した。
ここを離れたくない。
せっかく――せっかく、帰って来れたのに。
「漸……漸?」
「いい……」
「え?」
「行きたくない」
「……」
「ここにいたい」
どうにか顔を上げてそう告げると、瑞貴は一瞬目を見開いた後、ふっと目を細めて微笑んだ。
どこか切ない――だけど、優しい表情で。
「大丈夫だよ、漸。巳弘さんと翼のアパートに行くんだよ」
「……?」
「ここより、あっちの方が色々揃ってるからって。ね? 巳弘さんの部屋なら、いいだろ?」
必死に抵抗しようとしていた腕から、すっと力が抜けていった。
……そうか、巳弘の部屋か。
それなら、大丈夫。
「荷物はここに置いて……よし。あとちょっとだけど、背負おうか?」
「平気、歩ける……」
瑞貴の腕を借りて、どうにか立ち上がる。
本当はすぐにでも目を閉じたかったけれど、瑞貴に迷惑を掛けるわけにもいかないし。
何より、巳弘の部屋に行くというのは、今の俺にとってかなり魅力的な案だった。
あそこなら、きっと時間をやり過ごすのも大分楽だと思う。
より巳弘の気配を感じられる場所にいられるのなら、このバーにある自室以上に頑張れる気がした。
***
「じゃあ漸、着替えよう」
ようやくアパートに着き、もたつきながらも靴を脱いで巳弘の部屋へ入れば、瑞貴が俺に着替えろと指示をしてきた。
しんどい……何で今?
「後で……」
「だめだめ、すぐだから。そしたら、横になれるだろ」
「……どこに?」
「どこにって、ベッドに」
さっきから、薄々感じていたこと。
瑞貴が、何をしたがっているのかがわからない。
今俺は、ただ静かに休んでいられたら充分なのに……瑞貴は、俺にどうして欲しいのだろう。
「ほら、横になって」
よくわからないけれど、瑞貴はそう言うし。
俺も巳弘のベッドに身を預けるのは、気が安らぐ。
俺は倒れ込むように横になると、目を閉じた。
それからどのくらいの時が経ったのだろう。
ふと意識を取り戻したものの、なかなか目を開ける事が出来ない。
「漸」
俺の名前を呼ぶ声と、頭をそっと持ち上げられる感覚。
俺は反射的に、相手へと身を擦り寄せた。
「……巳弘」
巳弘の姿を見たくて、どうにか目を開ける。
でも、ぼやけていた視界の焦点が合った瞬間に見えたのは、困ったように微笑んでいる翼の顔だった。
「ごめんな、巳弘じゃねぇんだよ。多分もうすぐ帰ってくると思うけど」
「翼……」
「とりあえず、熱下げねぇと。ほら、気持ち良いだろ」
頭を下ろされた先に、何となく違和感を覚える。
次の瞬間には、頭部にひんやりとした感覚が伝わってきた。
「……?」
「こっちも」
続けて額に手を伸ばされ、俺は反射的に身を捩る。
何をされるのかわからないから、怖い。
さっきよりも更に身体の自由が利かなくなっている事が、異様に俺の恐怖心を煽った。
けど、相手は翼だってわかっているはずなのに……。
余裕が無いせいか、思考と体が勝手にバラバラな動きをしてしまう。