泰平 秦〜後漢


 前・後、両漢の太平の世は400年あまり。


?〜世紀前202年 南蛮
春秋戦国時代に最も栄えた江南の国だが、秦に滅ぼされた。しかし、民は楚の誇りを忘れては居なかった。「楚は三戸といえどを秦を滅ぼすものは、必ず楚なり。」楚の占い師の言った言葉である。項羽、本名項藉。身の丈8尺あまり。楚国の人。彼は、秦が天下を統一すると叔父が秦に対して反乱を起こしたためそれに従い、秦軍を破り、さらには叔父の死とともに軍を受け継ぎ、秦を滅ぼした。そして、ついには楚の覇王と言われるようになった。名実上、楚は再興したのだ。しかし、項羽に対して劉邦が反乱を起こした。劉邦は、張良・韓信・蕭何・陳平などの天才軍師・謀臣をうまく利用し、ついには項羽を垓下の地に追い詰めた。項羽は、800余人にまで減った配下の将士・寵妃虞の前で詩を歌った。「力は山を抜き 気は世を蓋う時に利あらずして 騅逝かず騅逝かざるを いかにかすべき虞や 虞や 汝をいかんせん」項羽、いきなり意を決し、馬に乗るや劉邦軍に突撃。敵兵数百人を切り、敵将を討ち取り、長江に出た。しかし項羽は江南に逃げず、一人で劉邦軍の追ってを迎え撃った。敵兵を切ること数百。最後には自ら首を切った。楚は滅亡した。 項羽31の若さである。


?〜世紀前206年 西戎
春秋の頃は西域の異民族の集まりの弱小国だったが、戦国時代、商鞅の富国強兵の令で大国に発展。武将白起・軍師王翦の働きで前221年、天下を統一した。始皇帝が生きている間は天下泰平だったが、始皇帝没後、農民の大反乱で、群雄割拠の時代になった。前206年、項羽配下の劉邦軍が、名実上も秦を滅ぼした。秦が天下を統一後、わずか始皇帝から三代目で秦は滅んだ。

陳楚
西紀前209年〜?年 南蛮
秦末期、民衆の大反乱から国を称するまでになった国。陳勝・呉広の二人が頭で、国号を称した後は陳勝が頭。後、自滅。しかし彼等の残党はまだまだ各地に勢力を張っていた。

漢(前漢)
西紀前206年〜9年 漢民族
項羽配下の劉邦は、有能な将軍や軍師を数多く配下に迎えていた。前206年、劉邦はその将軍たちを率いて項羽に反旗を翻した。初めは何度も項羽に敗れたが、守りに強い劉邦は、項羽を破り、天下を手中に収めた。その後、漢は異民族との戦いに没頭する事になる。特に異民族との戦いが激しかったのは、前141年に即位した武帝の時代である。武帝は、国力の増強→人材の発掘→異民族との戦いの順で、匈奴の軍をじわじわと破っていき、勢力圏を拡大した。西暦9年。長い泰平で腐敗した朝廷に反旗を翻した王莽に前漢は簒奪され、後、それを劉秀が立て直し、後漢を建国する事になる。

漢(後漢)
25年〜220年 漢民族
王莽が建国した新に代わり、劉秀が建国した国が漢。後漢である。漢は再興され、前漢・後漢、あわせて400年あまりが、漢の天下であった。しかし、売官制が盛んになりだした190年ごろから天下は揺るぎ、ついに220年、魏に後漢は滅ぼされた。その後、劉備が蜀漢を興した。

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