明・清



明【永楽帝】


1360〜1424年。明の三代皇帝で本名は朱隷。明の初代皇帝・朱元璋の四男。実は元のハーン・ドゴンの子という説もある。子供のころから軍才があったらしく朱元璋は長男が早死にしていたので、長男の子を皇太子にするか永楽帝を後継ぎにするかかなり迷った末、長男の子を皇太子にして死んだ。永楽帝は朱元璋によって燕京(いまの北京)に燕王として封ぜられた。朱元璋は生前、永楽帝をたたえて「北顧の憂いなし」と言ったという。その才能を朱元璋はおそれいつも長男の子・建文帝に「燕王(永楽帝)に注意せよ」と言っていたらしい。こうして育てられた建文帝は即位後、永楽帝に徐徐に圧力をかけていった。それに対し、永楽帝は家臣・妙広孝の進言により挙兵、4年の戦いの末、建文帝の本拠地・南京を落とし、1402年、大明皇帝に即位した。永楽帝は永楽大典などの編纂事業を行い、大運河を整備して、北京に遷都した。しかし永楽帝の治世の象徴は漢民族の皇帝でだだ一人ゴビ砂漠を越えモンゴル高原に五回も遠征しタタール・オイラートなどの部族を臣従させたこと。そして宦官・鄭和に重量8000トン、9本の帆柱を持つ巨大な木造船「宝船」を二百隻も作らせ、2万7000人の人員を率いさせてアフリカ東海岸やペルシャ湾へ明の権威を見せつけるための「南海大遠征」を決行させたことである。永楽帝は第五回モンゴル遠征の帰途で没した。正に戦争で即位し戦争で死んだ皇帝だった。また、永楽帝は宦官を重用したが、これが後の明に悪影響を及ぼした。さらにこのころから大規模な遠征により慢性的な財政難になりこれまた後の明に悪影響を及ぼした。つまり、永楽帝は皮肉なことに後の明に大きな「負の遺産」を残したのである。


清【康熙帝】


清の順治帝の第三子。八歳で即位し、十四歳で親政を始めた。その頃はまだ各地で鄭成功等明の遺臣が抵抗しており、油断出来ない状況であったが康熙帝は康熙22年(1683年)には、完全に明の勢力を平らげ、また、その6年後にはロシアと条約を結ぶなど、清の支配を擁立した。清の皇帝としては2代目だが、清の基礎を固めたのは康熙帝であるといっても過言ではない。

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