五代・北宋




金・南宋・元



孟きょう

祖父が岳飛の配下の猛将孟安「四祖」で父孟宗政が2万の忠順軍を残してくれたが、官界ではうだつはあがらなかった。がモンゴルと共同しての征金戦での活躍やモンゴルと和約破綻後の襄陽奪還の成功、その後のモンゴルとの防衛戦でも敵を破り続けた。その間に襄陽を基地とする北部方面の司令官「襄樊節度使」になり現職のまま死去。忠じょうとおくりなされた。漢土の統治に不慣れなモンゴルの横暴に耐えかねた多くの百姓が南に逃亡してきたが、その人たちの生計を成り立たせる為に屯田をしたりして統治者としても優れていた。また易や仏教特に禅に見識があり易も書物を残し禅でも「無門関」に跋文を書いたりしてこれは現在も残っている。世界最強のモンゴル軍も彼が生きている間はどうしょうも無かったといえる意外な名将であります。


フビライ・ハーン

モンゴルのカン(皇帝)南宋平定直前に元を建国した。名君であり、人材登用に力を入れた。そのためフビライの陣営にはいろいろな民族の名将や知将がそろっていた。南宋平定にあたっては民の無駄な殺戮を極力避け、人望を集めた。当時鎌倉幕府が治めていた日本にも兵を出したが、失敗。その後反乱がおこり憂悶のまま病死した。


史天沢

モンゴル軍の名将。漢人だが、まだ幼少の頃すんでいた所がモンゴル軍に奪われ、そのまま成人するとモンゴルのフビライに仕えた。その忠誠心・軍事力はフビライの陣営でもずば抜けており、フビライに重用された。南宋の平定に大功を挙げたが、まだ宋を完全に平定する前に病死した。


バヤン(伯顔)

ペルシア人。元初の功臣。フビライの信頼厚く、南宋攻略の総司令官に任ぜられた。その期待にこたえ、バヤンは次々南宋の各城を落とし、ついには臨安も陥れた。その後、フビライ死後、成帝即位直前に病死した。


廉希憲

ウイグル人でフビライの臣下。南宋攻略の功臣。謀反の疑いをかけられていた史天沢を救った事もあった。


賈似道

南宋末期の宰相。姉が帝の正室になり出世した。その後、わずかな功を大きく宣伝して宰相になった。
 モンゴル軍が間近に迫っているというのに朝廷での勢力争いを行い、名将・名参謀など、功のあった者を次々と陥れていった。臨安陥落直前、横暴の限りを尽くした賈似道だが、ついには左遷され、その後暗殺された。


劉整

宋の臣だったが賈似道の専横ぶりに怒り、モンゴル軍に降った。フビライに重用され襄樊の戦いで功を挙げた。臨安攻撃間近に病死した。


呂文徳

宋の臣。欲が深く襄樊の戦い直前にモンゴル軍から賄賂を送られ、襄陽城の前に貿易場を築く事を許し、襄陽城陥落の原因を作った。その後、自分の失態に気づき自害した。


呂文煥

呂文徳の弟。襄陽城の守備をしている所へ元軍が攻めて来、城門を閉じて徹底抗戦を挑んだ。姉妹都市樊城と橋で結び、元の猛攻に必死に耐えた。降伏の呼びかけも無視していたが、四年、五年とたっていくと城内の食料が不足しだし、さらに、外界との交通が一切耐え、1273年、元軍は「マンジャニーク」という重機を攻略に出してきた。マンジャニークの威力はつよく、これにより、樊城は陥落、呂文煥は元に降伏。のち、南宋平定の先頭にたつことになった。


牛富

宋の樊城の守将。マンジャニークにより城壁が破られ元軍がなだれ込んでくると、わずかな部下とともに白兵戦を展開。一人で奮戦したが体に槍を受け、重症となり、壁に頭を打ち付けて死んだ。


文天祥

字は宋瑞。南宋末期の宰相。その忠誠心・政治的能力は古の諸葛亮孔明と並び賞されるほどで、軍事的能力では文天祥のほうが上かと思われる。臨安陥落直前に宰相に任命され、降伏の使者に立ったが、強気な態度で挑み、捕らえられた。その後、臨安は降伏、南宋は滅亡したが、わずかな臣が臨安から逃亡。兵を率いて、皇室の血を引く子供をつれて逃亡すると、文天祥も騒ぎに乗じて元の軍から逃亡。兵を集めて南宋の各郡城を奪い返した。各地で孤独に戦い、あらゆる所でゲリラ戦を展開していたが、ついに元軍に捕らえられた。そこでいまだ抵抗している、南宋残党に対して降伏を促す手紙をかくよう言われるが、文天祥は、元の将軍に対して、一つの詩を読んでその答えとした。その詩の内容は、わたしの故国はいまや敵国に蹂躙されてしまった それにわたしの身はいまや雨に打たれる浮き草と同じようなものだ しかし思えばむかしから死ななかった者などいない みなその忠義の心で歴史を照らしているのだ   というものだった。((間違ってるかも(汗))その後南宋残存勢力も全滅。文天祥は降伏を勧められたが、固辞。ついに宋の臣のままその人生を閉じた。


張世傑

もとはモンゴルの軍人だったが、宋に亡命した。その力は南宋随一。文天祥・陸秀夫とともに亡宋の三傑と呼ばれている。臨安が降伏した後には都から落ち延びる皇帝の子供を守り奮闘した。逃亡朝廷を開いているあいだ中張世傑は一人モンゴル軍と戦い、それを打ち破った。南宋は文官は多いといえども武官は少なく、彼はなんそうに無くてはならない存在だった。南宋最後の戦い、崖山の戦いでは彼一人で敵数百の働きをしたという。崖山で宋軍が大敗し、帝が捕らえられた後も張世傑は何とか宋を復興しようと尽力したが、最後には舟で逃亡中嵐に見舞われ転覆。宋は完全に滅んだ。


陸秀夫

字は君実。亡宋の三傑の一人。逃亡朝廷の政治を執り行った。幼い帝の教育に力をいれ、他の人から、「こんな時に帝を教育してどうするのだ」といわれると、「帝を擁立して形式を示しているならきちんと通常の時と同じ事をしなくては」といって帝の教育を続けた。つねに帝のそばにあって正しい進言のみを行い、敵から恐れられた。崖山では敵が帝の船に近づくにあたり、涙ながら、幼帝を背負い船から飛び降りた。彼らの遺骸は僧によって丁寧に葬られたという。


劉師勇

南宋の勇将。常州の守将。モンゴルの大軍が常州を攻めてくると、わずかな兵で抵抗。味方の将兵が次々に倒れていく中、一人敵中にあり、モンゴル兵数百、モンゴルの将数人を切り倒していたが、味方が一人もいなくなると同時に血路を開いて逃走した。何とか臨安に落ち延びた劉師勇は、今度は都から落ち延びる帝の子供の部隊の大将になったが、酒屋で常州に死んだ同僚の事を思い出し、むなしさのあまり血を吐いて死んだらしい。

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