新・後漢



三国



曹操

後漢末、黄巾の乱に乗じて頭角をあらわした。群雄割拠の時代に皇帝を擁し天下に号令。敵対する勢力を次々に滅ぼしと、当時1番の勢力を誇っていた袁紹をも滅ぼした。その後、勢いに乗って呉国を攻め赤壁の戦いで大敗、天下統一の夢は崩れた。その後は勢力をコツコツ拡大していき、魏公を称し後病に倒れた。


戯志才

群雄割拠の頃の曹操の軍師。その才能は高く買われていたが、袁術討伐直前死んだ


郭嘉

曹操の軍師。その知略は孔明並みか!?戯志才の後任で曹操を補佐。二人の息はぴったりで曹操は、若き軍師郭嘉を自分の後継ぎとまで考えていた。しかし、天はそう甘くは無い。袁一族を根絶やしにし、異民族までも平定した郭嘉は、無理を重ねたせいか病をえた。そしてついに郭嘉は病死。わずか38年の命であった。その後、赤壁の戦いで曹操軍は敗北。敗戦後、曹操は逃走中に郭嘉のことを思い出し、「哀れや奉公 痛ましや奉公 口惜しや奉公」(奉公=郭嘉の字)といって嘆いたという。


夏侯惇

曹操の従兄で曹操挙兵当時から付き従った宿将。武力は当時でも一流。若い頃、師を辱めた者を殺した事もあるという。呂布との戦いでは、左目を射抜かれたが、夏侯惇は左目を矢とともにえぐり取り、父母からいただいた物だといて自らの目を食らったという。つねに曹操に付き従い、劉備軍での関羽のような活躍を曹操陣営で行った。関羽との一騎打ちでも一歩も譲らなかったという。大将軍に上り詰めたが病死した。


夏侯淵

曹操の従弟で夏侯惇の弟。惇とともに曹操挙兵当時から付き従った。各地でめざましい功績をあげ、征西将軍に任命させた。劉備の益州攻略の要地、漢中を守っていたが、劉備の将軍、黄忠に真っ二つにされた。


曹仁

曹操の従弟。夏侯兄弟とともに曹操挙兵当時から曹操に着き従った。若い頃は勇を振るって敵をなぎ倒していく感じの武将だったが、歳をとるにつれて軍を指揮して勝ちをつかむ感じの名将になった。呉・蜀と接している荊州の襄・樊城を守っている時、関羽に攻められ、城は今にも落ちようとしていたが、必死に抵抗して城を守り通した。曹操死後、3年で病死した。


典韋

義を重んじる最強の武将。夏侯惇に見出されて曹操に仕えた。80斤の斧をものすごい速さで振り回し、呂布との戦いで功を挙げた。曹操に認められ親衛隊長になると、曹操が夜襲を受け絶対絶命の危機に陥ると、一人斧を持って奮戦し、曹操を逃がした。この戦いでは親衛隊長典韋の部下たちは敵と戦い全滅。典韋の人望の厚さが伺える。典韋は一人で数十人を相手に戦い戦死した。矢を体中に受けハリネズミのような姿で立ったまま死んだという。


王凌

字は彦雲。太原郡キ県の人。後漢の司徒王允の甥。王允が、董卓の部下に殺された時、脱出して郷里に帰ったが、やがて孝廉に挙げられ、発干の県長、中山太守として治績を上げ、曹操に認められて丞相府の掾属となった。魏の文帝(曹否)が即位すると散騎常侍、?州刺史に任ぜられ、張遼らとともに孫権を討って功績をあげ、宣城亭侯に封ぜられて建武将軍となった。斉王曹芳のとき征東将軍に任ぜられ、呉の将軍を破った功によって南郷侯に封ぜられ、さらに司空から大尉に進んだ。その後、甥と共謀して曹芳を廃して曹彪を擁立するクーデターを計画したが、発覚。司馬懿に討伐され、降伏して都に送られる途中毒を仰いで自殺した。


司馬懿

字は仲達。魏きっての天才軍師。孔明の、ライバルとして、登場。孔明には及ばなかったが、孔明が死ぬと、その天才ぶりを発揮。魏、国内で、クーデターを起こし、実権を握った。その後、彼の孫が、晋を建国した。魏の重臣で、はじめは、国政を正していて、曹操の信頼も、高かった。孟達の反乱を、見抜いたので、戦術眼は、たしかなものだった。


周瑜

字は公瑾。三国志一の美男子。 呉の、孫策、孫権の重臣。曹操が、南下したとき、徹底抗戦を主張、皮肉の計・火計を提案。兵3万で、赤壁にて、曹操軍80万と、対峙、曹操軍を打ち破った。その後も、呉のため、戦ったが、流れ矢にあたり、戦死した。


陸遜

字、伯言。呉の勇将 江東の、名門の出呂蒙とともに、蜀の関羽を討ち、呉国防衛戦では、蜀兵を、火攻めで、大破して、大功をあげた。蜀との同盟後も、魏の国境を脅かし、魏から、「蜀に孔明、呉に陸遜あり」と、恐れられた。呉の、後継者争いに巻き込まれ、憤死した。


荀ケ

字は文若。曹操の補佐官 曹操に、数々の策略を提案。それと同時に、埋もれている人材を、数々発掘、曹操の覇業に大きく貢献した。しかし、曹操が、魏王になろうとしたのを、諌めたため、曹操の恨みを買い、自殺した。 宰相の職についていた。


王期

字は伯輿。魏大将軍司馬懿に、中書侍朗に抜擢され、呉征伐・母丘倹鎮圧・諸葛誕鎮圧に、功を上げた。 司馬一族晋の前期重臣


諸葛瑾

字は子瑜。孔明の実兄呉の、孫権を補佐、宰相・使者として、働いていた。軍の指揮も不慣れではなく、孫権の信頼も、絶大だった。赤壁にて、孫権に孔明を、劉備から寝返らせて、わが軍につくよう説得しよといわれたとき、「孔明が、劉備を裏切らないのは、私が、殿を裏切らないのと同じであります。」と、言ったため、さらに、信頼を得た。


魯粛

字は子敬。呉、周瑜の後継者 知略が有り、呉の政治家として、孫権・劉備同盟を唱えた。彼が死ぬと、蜀でも孔明が喪に服した。

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