先史



春秋



祭足

春秋戦国時代のきっかけを作った天才軍師。 鄭荘公と共に鄭を大国にした。祭足は、文武両道に秀でていた上に、政治的野心は全く無かったので、荘公に、絶大の信頼を寄せられた。軍師としては、当代一流で、例えば、荘公が遠征をするので、城の留守を任された時の事である。荘公の留守を狙って「衛」「宋」「魯」「陳」「蔡」が、連合して城を攻めてきた。祭足は、巧みな用兵で相手を脅し、ついには相手を壊滅させた。その後、またも三カ国が連合して攻めて来た時、「祭足が相手では到底勝ち目は無い。」とまで言わしめた。その後も、周朝の王が兵を率いて攻めてきたときも、こちらが先に王命の旗をあげ、相手を誘い出し、周の皇帝の足を矢で貫く、という作戦も成功させ、天下に威厳を示した。さらに、異民族の撃退など、あらゆる面で活躍したが、荘公の死後、自分も年をとったので、引退を表明し、天寿を全うした。


管仲

斉国の宰相。鮑叔の親友。春秋初期の頃の斉の桓公に仕えた。管仲は、政治・軍事両面で活躍するが、何といっても、管仲の政治は、斉桓公を覇者たらしめた。経済・民衆の安定を図った後、戦に出る。管仲の戦いで有名なのは、斉の北方の国、燕の異民族との戦いに援軍として参加した時のことであろう。管仲は正攻法や奇形を組み合わせて異民族を大破。さらにその領地を燕に譲るなど、斉の名声を響かせた。後任の宰相に隰明を推薦して死んだ。自分の血の一滴までも斉国に捧げた、忠臣でもあった。 管仲死後、斉は衰えた。


鮑叔

有名な管仲と、無二の親友。「君知るや管鮑の交わり」を・・・鮑叔は、若い頃から、管仲と共に乱世を生きてきた。剣戟の名士で、それなりの富豪。さらに学問を修めた秀才。 はじめ、管仲とは違う軍に配属されたが、管仲と合流、斉桓公の補佐をして、桓公を、覇者たらしめた。管仲が、戦に出るときは、留守を守り、時には輜重隊長として、管仲に作戦を教え、その補佐官としても功績があった。 管仲が死んでからは、宰相に任じられたが、その重荷に耐えられず、病気になり、後事を言い届けて死んだ。


曹沫

斉国の隣りの国、魯国が、管仲と互角で戦える、と信じて登用した在野の将。管仲の富国強兵策がまだ完成していないのに付け入って出兵した時には、管仲のいない斉軍を、二戦中二回撃破した。 しかしその後、今度は、富国強兵が完成した管仲直々の遠征に、三戦三敗した。しかし、その後、攻められかけた魯の危機を救い、名誉を回復した。


孫武

現代では彼が『孫子』という兵法書を書いたことから孫子とも呼ばれる。 前6世紀頃江南の地に頭角を現しだした呉の国に軍事顧問として仕える。楚との戦いで輝かしい功績をあげたらしいが、多くは語られていない。


伍子胥

孫武と同じ頃の呉に仕えた。宿将。元は楚の人であったが父と兄が冤罪により国王に殺され、国を脱出。呉に入った。呉では対楚積極策を推し進め、自ら軍を率いて楚の大軍を大いに破り、楚の都を陥落させた。彼は父と兄の恨みを晴らすため、都に入ると楚の平王の墓を暴いて王の屍に鞭打ったという。その後は越との戦いに全力を費やしたが、その時の呉王夫差に諫言を繰り返したため疎んぜられ、最後には自殺を命ぜられた。自殺の直前傍の者に「我が眼をとりて呉の東門に置け、もって越兵の入を見ん」と言ったという。名兵法家の最後である。

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