記念部屋
□虚無なれば
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彼女は笑っていた。たくさんの人間、友人、理解者に囲まれて、笑っていた。それは外から見れば、まさに天国のような光景だったろう。
彼女は天使だった。
比喩ではなく、そのもの天使だった。なぜ天使がこんなところ(この世界のことだ)にいるのか、天使に性別があるのかは知らないが、彼女は天使だったのだ。形は人間とそう変わらないが、背には真っ白な翼がある。それだけが、それだけで、それが事実だと物語っていた。
彼女はいつからか現れ、人と関わっている。今もたくさんの人に囲まれて、笑っている。それを僕は、隣の車両からぼうっとみつめている。
今日は見送りの日なのだ。電車とは随分と現実的な移動方法だが、彼女はまた旅にでるらしかった。
別れを惜しむ人々。それこそ天使の微笑みで答える彼女。興味がないわけではないが、僕はそれを遠巻きにみつめる。
人混み、そして流行り廃りは不誠実な気がして嫌いだ。同じものに群がる人間の習性は反吐がでる、とまでは言わないが、引いてしまう。それに見世物のようで失礼な気もする。……まあ、こんな考えも独り善がりな偽善なんだろうけれど。
駅で幸せそうに笑う彼女をみて、きっと天使になれたら幸せなのだろうと思った。そして彼女は人間が好きなのだろうとも思った。もしかしたら、人間が好きだから天使になれたのかもしれない。
まあ、どのみち僕には縁のない話だろう。
発車時刻。たくさんの人間に見送られて、彼女は電車に乗り込む。最後まで、笑顔、笑顔、笑顔。
しかし、ゆっくりと電車が動きだし、静かになった後の彼女の表情をみて、僕はギクリとした。
まるで能面のような、何もない笑顔。表情のない瞳からは、絶望すらうかがえない。
彼女はだらりと座席に背をあずけ、そのまま寝転がり、虚空をみつめていた。
──それは、僕だけが垣間見た、天使の顔。きっと本来の顔。かつての人間の顔。元は人間なのだと確信する。そしてそれを、彼女はたった今まで知らなかったのではないだろうか。
もちろんこんなのはただの想像だが、人間から逃げて天使になったのだと思い出し、ひどく虚しくなったような、そんな表情。
彼女は、もしかしたら、そんなに人間が好きではなかったのかもしれない。なのに天使となっても変わらなく、過去の自分である人間をみつめる業を背負い続けている。それに気づいてしまった。
それがあの無に繋がるのではないだろうか。
不特定多数の個性の中でただ流され、依存し、漂流し、群れて、あてどもなく生きる。
『……そんな人生はごめんだったので』
座席からだらしなくずり落ちている彼女から、そんな言葉がきこえた気がした。
……それきり、僕が彼女を見ることはなかった。
彼女は今、笑っているだろうか。それともあの空の表情で、さ迷っているのだろうか。
僕も、逃げたらそうなるのだろうか。僕の電車は何処に行き着くのだろうか。
わからない。わからないけれど、彼女の表情を思い出すと、このままでは何処にも辿り着けない気がして、ひどく儚くなった。
虚無なれば
(わかっているのに)
END.
→あとがき。