記念部屋
□桜の下には蛇が棲む
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──桜の下には、死体が埋まっている。
いやに月の大きな夜。吹き荒ぶ風に浚われていく、赤を薄めた色を染み込ませた花びらを視界一面に捉えながら、男は薄気味の悪い話を思い出す。
優美に咲き誇るそれは確かに儚く美しくあるのに、何故こうも物騒な物語をつけられるのだろう。それがまた似合ってしまうから不思議だ。相反する危うさがいいのだろうか。
益体もないことを考えながら、男は一際大きく立派に佇む一本の前でふと足を止める。ざわざわと動物の様に蠢くその姿の影に、別の影を見つけた気がしたのだ。
それは、白く。月明かりの下では一層白く。むせ返るような薄赤の群れの中に、ただ忽然と在った。
──桜の下には、死体が埋まっている。
ざわりと吹き抜けた風に思考を撫でられ、男は目眩をおこす。
ああ、あれは『そう』なのだろうか。そうだ、あれが、あれがこの世のものであるはずが無い。夜目に朧気ながら、妖しく白く白く映えるあれは、この世には既にないものだ。
男の足腰が、がくがくと悲鳴をあげる。その周りを、血を吸い上げたかのような薄赤が、ふうわりふうわりと舞い踊る。
────くすくすくす。
聴覚がその音を捉えた時、男の血液は一気に足へと集中した。狂ったようにちらりちらりと降り積もる薄赤は、男の血液の流れと恐ろしいほど一であった。
──桜の下には、死体が埋まっている。
あれが『そう』であるなら、自分はこのまま喰われて──……この世ならざるものになってしまうのだろうか。夜の桜になど、近づくべきではなかったのだ。
『そう』ならば、もう抵抗する気力などなく。薄赤に酔わされるまま、男は正気を失っていく。
────くすくすくす。
恍惚に呑まれていく中で、あまりにも白い『それ』が、唇を薄く開くのを男は見た。
このまま喰われるのか、喰われてもいいか、と微かに思ったのは、男が既に狂っていたからか。それとも『それ』が、儚くも確かに美しかったからか。
『それ』は、嬉しそうに。本当に嬉しそうに。嬉しくてたまらないといった様子で、瞳を笑みの形に崩す。病的に白い『それ』の頬と唇には、ほんのりと朱がさし、その朱がゆっくりと動いた。
「あなた」
「一緒に」
「いたい」
──これは誘引か。細く高く、しかし柔らかく響くそれは、まさしくこの世ならざるものからの、すなわち死の誘い。妖しく甘美な微笑みに促されるまま、男がこくりと頷こうとすると、朱は未だ動いていて続きを紡ぐ。
「ひとは」
「いる?」
ぞぶぞぶと沈む男の意識が、その下降を停止する。ざわりざわりとさざめく薄赤が、逆巻く風に浚われ舞い上がる。
目の眩む、花びらと音の嵐に捲き込まれながら、男は己の唇が確かにつり上がり、『それ』と重なるのを感じた。
────くすくすくす。
風と、薄赤と、音の群れ。桜の下には、鮮やかな赤が降り積もる。
桜の下には蛇が棲む
(そう、それは死への誘引などではなく、堕落への教唆)
END.
→あとがき。