記念部屋

□誘因メトロノーム
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「さあ、いきましょう」


 急にかけられた声で眠気が覚めてしまった。
辺りはあたたかく、明るくて、微睡んでいるだけで心地いい。誰がこの場所を離れたいなどと思うものか。
しかし相手は引き下がらず、まだ傍らを離れない。


 ああもう、欝陶しい。


「ここに一人でいるより、楽しいよ」


 その甘言は聞き飽きた。


 楽しい? 楽なだけの世界は、既にここだ。二度と私は戻ったりするもんか。
それを思うだけで寒気がする。もううんざりだ、行きたくない。
私は頑なに拒む。弱虫と罵るならそれもいい。
だって、ここは居心地がいいんだ。何の干渉もなく、平和なんだ。何故わざわざ……。



「怖いの?」



 カッと頭に血が上る。相手の声音が、嘲笑でも侮蔑でもなく、同情と哀れみを含んでいたからだ。
うるさいな、違う、そんなんじゃない。
もうやめて、泣きそうだ。


「みんな待ってるよ。君を待ってる」


 そんなことはわかっている。向こうの準備はできている。私は急がなければ。
でも、でも、まだ。


「大丈夫。また戻ってこられるよ」


 相変わらずのペースで繰り出される甘言。
先刻から棒立ちのまま発される言葉には、恐喝も教唆もない。私に自分の意志で行動してほしいのだろう。
だけど、それが怖いんだ。

 だって、甘いばかりじゃないことは、よく知ってる。苦いことだって、たくさんある。
そして、戻ってくるのは、とてもつらい。とても悲しい。とても淋しい。
どうせ戻ってくるのなら、ここにいたっていいじゃないか。



 行きたくない。
 生きたくない。



「もう本当に決めないと。いかないんだね?」


 片腕の袖をまくるかのような、まるで時を確認するようなしぐさをしながら、確認の言葉が放たれた。
だから最初からそう言っているじゃないか。
いかないったらいかない。いくもんか。私は遠慮するから、誰か他の人に声をかけてくれ。


「だけど。みんな、君を待ってる」


 震える。景色が揺らぐ。なぜ、なぜ私なんだ。


「君がいいって。早く生まれておいでって」


 ──うるさ、い。
 だからもう戻らないから。しつこいな、やめて。



「すきだって」



 ────……。



「はい、なかなか強情でしたが、今いきました。ええ、とりあえず納得したみたいです。
は? またですか? わかりました。すぐいきます」


 それは、何者かと報告めいた会話をした後、やれやれと肩を竦めて、忙しなくその場を去った。


 ──次は、明日が予定の魂か。
最近はなんの風潮なのか、いきたがらない輩が多くて困る。このシステムも限界なのではないか。


 結局甘言など意味はなく、届く言葉は限られているのだ。


 少しだけ虚しさを感じながら、歩を進めた。
しばらく後、ある扉の前でぴたりと静かに歩みを止め、侵入する。
そして、安穏とした場所から痛みの世界へと送るため、定例の甘言を吐くのだ。


 それは一定に、定期的に、誘うように。
しかし虚偽ではないのだと、安心させるように。思い出させるように。


 ──世話がかかる。
 まあ、無理もないけれど。


 ここを去るのは辛くて苦しいだけだろう。
優しくない世界に放り出されるのは、不安で仕方がないだろう。


 だから、たくさん甘えてきなさい。
傷ついて、傷つけて、自由に過ごして戻りなさい。


 少しでも、少しでも、笑って戻ってこられるように。
その道程に光があるように。



 ────さあ。



「そろそろ、生まれませんか」



 扉の向こうで蹲っていた魂は、その言葉に不安げに身じろぎした。




誘因メトロノーム
(まあ、のんびりいきましょう)



END.
→あとがき。

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