中編
□05
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生きていれば驚く事なんてごまんとある。
それでも、きっと今日の出来事は人生で上位に食い込む程の驚きだろう。
真剣な瞳で私を映して離そうとしない。
可愛らしい後輩だと思っていた彼が、今見たことのない男の顔で迫ってきている。
動きの鈍くなった頭で、どう返事をするべきか必死に考えていた。
これは本心で言っているのか。
瞬きの回数や目の動き、息遣い、体温。
慎重に精査していく。
忍たまなのだから何かしらの課題の可能性もあるのだ。
もしそうならかなり悪質ではないか?
これだから忍者というのは嫌なのだ。
そんな事を考えて綾部を観察していると、答えを急かす様に、頬にあった温もりがスルリと滑って顎を掬い上げた。
綾部の熱の籠った目を見て反射的に身体が強張る。
「……してもいいですか?」
こんな状況でもちゃんと言った事は守るのだなと、可愛いような、可笑しいような、温かい気持ちになって思わず目を細めた。
「駄目……と言ったらやめる?」
綾部はへの字に口を噤む。
そして不服そうに視線を逸らした。
「……先輩が嫌ならしません。」
しゅんとして添えていた手を下ろし、目に見えて落ち込む綾部に、私は小さく息を吐く。
観念に近い決心をして口を開いた。
「とっくにさ……」
綾部はその言葉に釣られるように、ゆっくりと沈んだ顔を上げた。
「占領、されてるんだよね。」
私の言葉に綾部は「え?」と声を上げた。
「頭の中が綾部でいっぱいなの。」
それを聞いて綾部の目がハッと見開かれる。
きっとこれは演技じゃない。
そう心のどこかで願っている自分が可笑しかった。
つい苦笑いが溢れる。
期待を滲ませた表情が次に放った私の言葉で歪んだ。
「だけど、気持ちには応えられない。」
綾部の顔は悲しそうに曇る。
「それはどうしてですか?」
とても怪訝そうに眉が寄っていた。
言っていいものか暫く思い悩んだが、後にわかる事だし隠す事でもないと口を開いた。
「私、卒業したらシナ先生の補佐として忍術学園の教師になるの。」
「えっ、名無し先輩が……先生に?」
鳩が豆鉄砲を食らったかの様な表情に、私は「そう。」と薄っすら笑みを浮かべた。
教師と生徒が恋仲なんて言語道断だし、忍者を目指すに当たって支障が出るに決まっている。
忍術学園の先生になるということは、くノ一になるということなのだ。
綾部ならばこの意味がわかるだろう。
私が流石に諦めるだろうと思っていると、綾部の顔がパーっと日が差した様に明るくなった。
「理由を聞いて安心しました。忍術学園の先生になるということは、次の年も一緒にいられるんですよね?」
「え?ま、まぁ……そうなるかな。」
予想していた反応とかなり食い違っていて、私は目を丸くし戸惑った。
「じゃあ、これからじっくりと仲を深めていけますね。」
「え!?」
そう解釈する?
晴れやかな綾部とは対照的に、次々と湧き出る葛藤を抱えて、内心とても穏やかではいられなかった。
「卒業が楽しみになりました。」
にこにこした笑顔を見ると、返す言葉が見つからない。
どうしたものかと。
ななしが苦笑いを浮かべていると、綾部はズイズイと身体を寄せた。
狭い穴の中なので、あっという間に壁際まで追い詰められてしまう。
「こ、今度はなに?」
私は予測のできない綾部の一挙一動についていけず困惑していた。
鼓膜を刺すような煩い心音を聞きながら、これ以上近づかないよう綾部の胸を押さえる。
「名無し先輩のこと、これからはななし先輩って呼んでも良いですか?」
「それは、いいけど……ちっ近い。」
恥ずかしくなって顔を背けると、綾部は嬉しそうに耳上辺りの髪に唇を寄せた。
髪越しに伝わる綾部の体温を感じて、途端に身体が熱くなる。
これ以上流されてはいけないと、ななしは覆いかぶさるように迫ってくる綾部を必死に押し退けようとした。
しかし、分かってはいたが、力が強くてビクともしない。
「綾部、離れて……」
「今は生徒同士なので問題ありませんよね?」
言うと、綾部は再び頬に手を添えて、親指の腹で優しく唇をなぞる。
たったそれだけの事なのに、ゾクゾクと身体に電流が走った。
逃げなければという思いと、このまま受け入れたいという思いが攻防していた。
"やめて"とさえ言いえば、綾部は絶対に止めてくれる。
分かっているのに口が開こうとしない。
ゆっくり顔を動かして窺い見ると、頬を赤く染め、静かに答えを待つ綾部が見えた。
余裕そうに見えて緊張はしているのだなとそう思った。
好いている相手に強引に迫っているのだから当たり前だろう。
綾部の懸命な表情に、張っていた糸がプツリと切れ、愛しさが込み上げた。
何だかもうどうでも良くなった。
私は綾部が好きだし、綾部も私の事が好き。
今だけは素直に受け入れてもいいじゃないかと。
この穴の中だけは許されるのではないかと。
そんな気になって、私は「いいよ。」と答えた。
近づく気配にゆっくりと瞼を閉じる。
触れる程度に重ねられた唇は柔らかくて、互いの体温差を感じた。
綾部らしい優しい口づけだった。
心が蕩ける。
好きな相手との口吸いはこんなにも心地が良いのだなと、私は藁の上に置かれた綾部の手に、自分の手を重ねた。
くノ一を目指して捨てたはずの心がよみがえって、無性に悲しくなった。
名残惜しそうに離れていく唇が「好きです。」と囁く。
心臓がギュッと縮んで苦しかった。
「……綾部の卒業が待ち遠しいよ。」
私が本音を溢してそう言うと、綾部は目を見開き、そして眉尻を下げた笑顔で「はい。」と言った。
2022.08.28