短編

□胸の煙
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『胸の煙』


 パチパチと何かが窓硝子を叩く音で目が覚めた。

ベッドの中でゆるりと頭を動かし、視線を窓の外へ向ける。

月明かりも、星明かりもない。

窓の外には、ただ薄暗闇が広がっていた。

微かに漂う雨の匂いと、シーツに纏う湿った空気に、あぁ雨が降ってきたのだと、何かの正体が雨粒だと気付く。

普段なら、この程度の雨音で目が覚める事は無いのだが。

ななしは身体を起こし、重い瞼を擦った。

北の国での討伐任務を終えた身体で、再び眠りにつくのは極々容易であったが、ななしは椅子の背に掛けてあったストールを羽織り、傘を手に部屋を出た。

 ゆっくりと慎重に扉を閉めたはずだが、天井の高い廊下には、カチャリと音がよく響いた。

それだけ、今の魔法舎には音が無い。

隣の部屋のカインとアーサーも、向かいのヒースやシノも、まだ夢の中だろう。

気遣う気持ちはあったが、雨足の強まる音を聞いて焦りが生まれる。

閑寂な廊下にコツコツとななしの急く足音が響いた。

 階段を駆け下りて中庭を目指す。

外へ繋がる扉を前に、直ぐ飛び出せるようにと、傘の留め具に手を掛けた。


「賢者。」

「わっ!……ファ、ファウスト。」


 ななしの肩がびくりと跳ねた。

そのお手本のような驚きっぷりに多少の負い目を感じたのか、ファウストは「すまない。」とサングラスを押し上げる。


「いえ!こちらこそ、気が付かなくてすみません!」


 ななしは留め具から離した手をブンブンと横に振った。

まさか、こんな時間に出歩いている人がいると思っていなかった。


「……こんな夜明け前に、急いでどうしたんだ?」


 訝しげに寄せられた眉。

サングラスの下には、こんな雨の中に飛び出していく気か?と、不審感と呆れの滲んた顔があった。


「実は、少し気になることがあって。」

「気になること?」


 それは先日、魔法舎の中庭で見つけた老猫の存在だった。

この雨の中、身体が濡れて、寒さに震えていないだろうかと心配になったのだ。

ななしはその話を、猫とよく遭遇する中庭の辺りを指差し始めようとした。

すると。


「なんだ、キミもか。」


 ななしの指先の方向と焦燥に心当たりがあったのか、ファウストは話を聞く前に納得を示した。


「え?」


 ファウストはななしの体の前に手を翳す。


「《サティルクナート・ムルクリード》」


 呪文の後、体の周りを淡い光が覆う。

驚いている間もなく、光はスッと空気に溶けていった。

透明の膜に包まれているような、不思議な感覚だった。


「行くぞ。」


 一言そう言って、ファウストは傘も差さずに雨の降る中庭へ足を踏み出す。

そこでようやく、ファウストも同じ確認に来たのだと理解した。

 魔法の膜で覆われた体は、雨水が当たっても髪一本すら濡れない。

それを良いことに、ななしは遠慮なく膝を地面に付いて、草むらの下を覗き込んだ。

きっと、雨の当たらない物陰に隠れているはず。

いるのかもわからない猫の存在を、とにかく必死に探した。

どこか温かい場所にいるのならそれでいい。

ただ、行方を確認するまではどうにも眠れそうにない。

とりわけ葉が重なり合う茂みを押し広げる。

そこに、体を丸めて蹲る猫を見つけた。


「いました!」


 ななしが声を上げると直ぐにファウストが駆け寄ってきた。

微かに体が震えている気がして、ななしは思わず猫を抱き上げた。


「ミケ……」


 抵抗が無いのは、気を許してくれているからなのか、はたまた弱っているからなのか。

ドクドクと心臓の収縮が早まる。


「とりあえず魔法舎へ。」


 ファウストの落ち着いた声に、焦って思考の鈍った頭がようやく機能し始めた。

まだ夜の明け切らない時間帯。

人気のない食堂へと移動すると、ファウストはすぐさま魔法で猫の体を乾かした。

濡れてペタッと貼り付いていた毛がふんわりと立ち上がる。

それを確認し、ななしは羽織っていたストールで猫の身体を優しく包み込んだ。

しばらくすると、薄っすらと開かれているだけだった猫の瞳が精気を取り戻し、パチリと大きく瞬きをした。


「震えが……止まったみたいです!」

「もう大丈夫だろう。」


 詰まっていた空気が肺の奥から吐き出される。

最悪の状況を脱して、嬉しさの余り、隣に座っていたファウストを勢い良く見上げた。

興奮したななしの表情を見て、ファウストは一瞬瞠目し、そして、フッと柔らかい笑みを溢した。

普段は見せないような優しい眼差しに、ドキッと胸が鳴った。

じわじわと込み上がる心の底からの安堵と、共に荒波を乗り越えた高揚感に、視線を交わしたまま私たちは微笑み合った。

ななしの膝の上でストールに包まれていた猫は、もぞもぞと身じろぎし、みゃーみゃーと、まるでお礼を伝えるように嬉しそうに鳴いた。


「ふっ……無事で良かったよ。」


 ファウストもそう言っているように感じたのか目を細め、猫の頭をゆっくりと撫でた。

気持ちよさそうに、猫の方からもファウストの手に擦り寄っている。


「可愛いな。」

 可愛い。


 ファウストの声とななしの心の声が重なる。

穏やかな空気がゆるりと胸を満たしていく。

至福の時間だった。

ミケが私の膝の上にいるせいか、必然的にファウストとの距離は近い。

ななしは何の気無しに横を見上げた。

サングラスの隙間から瞬きの度に揺れる睫毛。

普段、この角度からファウストを見ることがないから、何だか新鮮だった。

そんな事を考えて、しばらく見つめていると、菫色の瞳が私を映した。

ばちっと視線が合って息が止まる。

綺麗で、つい見惚れてしまっていた。

思いのほか縮まっていた距離に気づいたファウストは、バツが悪そうに視線を逸らした。

広がっていく距離に何となく寂しさを感じて、それを隠すように、誤魔化すように、ななしはミケに視線を落とした。

 雨夜の薄闇が広がる食堂。

訪れたのは耳の痛くなるような静寂だった。

気まずい空気に、ななしはすかさず質問を投げかけた。


「あ、あの、私はもう少しここにいます。ファウストは部屋に戻りますか?」


 ファウストは束の間、逡巡した。

流れる沈黙にソワソワと胸が落ち着かない。

ななしはストールの端を握り、ジッとファウストを見つめて応えを待った。


「……僕も、しばらくここにいるよ。」


 部屋に戻るのだとばかり思っていたので、ファウストの返事は意外だった。

ななしのポカンとした表情に、ファウストは眉を寄せる。


「なに?早く部屋に戻ってほしいの?」

「いえ!そんな事は決してなくて、むしろ、まだ一緒にいられるんだって嬉しくて………」


 勢いに任せて余計なことまで言ってしまったと、ななしは思わず口元に手を当てて、おどおどと視線を泳がせる。


「……そう。」


 ファウストは気にすることなくそういうと、サングラスに指を添えてミケを見下ろした。

何も言われなかったことにホッと胸を撫で下ろす。

ミケも嬉しそうに、みゃーと鳴いた。


「今更だけど、ミケ……とは、この子の名前か?」

「はい!と言っても、私が勝手に呼んでるだけなんですけど。元いた世界に、この子とよく似た猫がいたんです。なのでついそう呼んでしまって。」

「ふっいいんじゃないか?……ミケおいで。」


 ファウストは慣れた仕草でミケを呼んだ。

ミケは警戒することなくファウストの手に顎を乗せて擦り寄る。

そのまま気持ち良さそうに目を細めて、ファウストに撫でられていた。


「こうしてミケと呼んで反応しているんだし。」


 ファウストがこの子をミケと呼ぶ事が、なんだか秘密の共有をしたような気持ちになって嬉しかった。

お互い気負わないテンポで会話を交わし、時折りミケを撫でて、心も膝の上もポカポカと温かくなっていた。






 * * *


 食堂に柔らかな朝日が差し込む。

雨が止んだのかと、ファウストは雨粒によって光彩を放つ窓に視線を向けた。

そろそろ部屋に戻った方がいい。

そう声を掛けようとした。

が、次の瞬間には腕の辺りにコテっと重みを感じ身体が固まった。

首を回してみると賢者の頭が肩越しに見えた。


「……賢者?」


 声を掛けても反応がない。

まさか、と体を動かさないように慎重に顔を覗き込んだ。

瞳は閉じられ、僅かに開かれた口からは、規則正しく寝息が聞こえた。

賢者は膝の上のミケと同じように、気持ちよさそうに眠っていた。

余程、疲れていたのだろう。

満足そうに微笑みを浮かべた無垢な寝顔は、癒しの効果がある反面、妙に胸をざわつかせた。

ファウストは黙ってななしの顔にかかった髪を指で流し、しばらく寝顔を眺めた。

起きる気配は……ない。


「君は、僕が何かするとは考えていないのか?」


 問うてみたが、もちろん返事はない。

危機感のない賢者に焦りすら覚える。

僕じゃなく、他の魔法使いにも、こうして気を許しているのだろうか。

そう思うと何故か妙に胸が詰まった。

らしくない思考を掻き消すように、ファウストはかぶりを振った。

賢者を一人ここに置いていくわけにはいかない。

仕方なく、ファウストはななしを抱えて部屋へ向かった。

階段を上がりながら、誰にも会わないことを祈る。


「ふぁーすと……」


 むにゃむにゃと賢者の小さな唇が動く。

吐息が漏れたような微かな声だったが、確かに聞き取れた。

胸の奥に甘く痺れるようなむず痒さを感じて、思わず視線を逸らした。

ファウストは頭を伏せて「はぁ〜」と息を吐いた。

柄でもない事はするものじゃないな。

軽く動揺をいなして、次の段へ足を進めた。

それにしても、賢者は無防備過ぎる。

後で注意しなければと、真摯に心に留めた。







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