短編
□鮮明に残っていくの
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午前の授業が終わり、ぽかぽかと微睡みそうになる昼日中。
ななしはのんびりと鼻歌交じりに食堂へ向かっていた。
今日のメニューは何かなぁ〜
なんて暢気に考えながら、ゆるゆると流れる暖かい風の心地良さに目を閉じる。
すると、木々のざわめきの隙間から、耳を澄まさなければ聞こえない程の、微かな声が聞こえた。
ななしはピタリと足を止め意識を集中する。
「ーーー。」
何を言っているのかは分からないが、空耳ではなさそうだ。
ななしは一瞬、素知らぬふりをするか迷ったが、お腹と相談した末、渋々声のした方へ足を向けた。
小松田さんが居るので考えにくいが、万が一、曲者が侵入していたらと考えると、上級生としては確認をしておくべきだと思った。
膝丈まで伸びた草むらを進んで、最近用具委員が修補したのであろう、綺麗に白塗られた土塀の側まで来た。
「誰かぁー!!」
今度は確かにハッキリと聞き取れた声に、ななしは「あ〜」と脳裏にある顔を思い浮かべる。
木の後ろに回ると、予想通り地面にぽっかり穴が開いていた。
ななしは答え合わせをするため、穴に近づき中を覗き込む。
これは……綾部のやつ深く掘ったな。
辺りが明るいせいか、穴の中はより暗く見え、ななしは僅かに目を凝らす。
薄闇に浮かぶ栗色の髪が動いた。
「あ!名無し!!」
気配に気が付いたのか、不運大魔王こと善法寺伊作がこちらを見上げ、顔を輝かせた。
伊作は「良かった〜」と落とし穴の中で安堵の声を漏らしている。
深緑色の制服は泥でまみれ、女子に人気のある綺麗な顔も可哀想に牛柄になっている。
「大丈夫?」
思い浮かべた人物と合致し、ななしは上から声を掛けた。
「何とか。」
頬を僅かに上気させ、伊作は情けない笑みを浮かべている。
「今縄を下ろすよ。」
ななしは懐から鉤縄を出し近くの木に結ぶと、片側を穴の中へ投げ入れた。
「助かったよ、ありがとう。」
穴から出た伊作は、誰にでも好かれそうな人懐こい笑顔を浮かべ、草の生い茂る湿った土の上に躊躇なく座り込んだ。
全身泥だらけなので気にならないのかもしれない。
「なんでこんな所に落ちてるのよ。」
普段人が踏み入らないような場所だ。
いつものことだと思いながらも、不思議で聞かずにいられない。
「これのせいだよ。」
そう言って、伊作は懐から汚れた包帯を取り出した。
「洗って干していたら風で飛んじゃって、追いかけたら穴に落ちてた。」
あははと乾いた笑みを溢す伊作に、ななしは溜息を吐いた。
どこまで不運なんだこの男。
六年生にもなって不注意すぎるし。
「怪我は?」
ななしは呆れ顔のまま聞いた。
「腕と膝下を擦り剥いただけだ、大丈夫。」
伊作は無邪気な子どもの様に頬に土を付けたまま、心配された事を恥ずかしそうに、それでいて嬉しそうにはにかむ。
その余りの暢気さにななしは眉をグーっと中心に寄せた。
「大丈夫じゃないでしょ!傷口からバイ菌が入ったらどうするの?」
まさか怒られると思っていなかったのか、伊作は面食らって背筋を伸ばし目を丸くする。
「痛い方の手はどっち?」
「へ?あっ右……です。」
気迫に押されつい敬語になる。
ななしは伊作の左手を取ると、背中に腕を回して体を引き起こした。
「名無し!?」
強引に起こされた伊作は動揺しているのか声を上擦らせた。
「傷口洗いに行くよ、歩ける?」
「は、はい!」
戸惑いが触れた肌からも伝わってきたが、気にしないことにした。
何せ今は脛に滲む血の方が気がかりで、心配だった。
ななしは極力伊作の表情を見ない様に手を貸し、井戸へ向かって歩き始めた。
水路の上にはめ込まれた木板に伊作を座らせると、ななしは水を汲み上げるために釣瓶を井戸へ落とした。
桶へ水を移して伊作の元へ運び正面に跪く。
「あっ名無し、服が汚れるよ。」
申し訳なさそうな声に「後で着替えるからいいの。」と、眉尻の下がった瞳を見上げ微笑んで見せた。
既に伊作を抱え上げた時点で汚れていたので、今更膝が汚れることくらい気にならない。
「巻き込んじゃってごめん。」
伊作の言葉は尻すぼみだった。
「気にしないで、私が勝手にしたことだし。」
話している間もななしは手を動かした。
脚絆を外し袴の裾を捲くる。
猫に引っかかれた様な傷が現れ、見るだけで痛そうだ。
「沁みるかも。」
前置きをしてからななしは傷口を洗った。
「っ……」
頭の上で伊作の顔が痛みに歪んだのが分かる。
泥と血が綺麗に流されたのを確認し、清潔な手拭いを当てた。
頭巾を器用に片手で外すと、その上に巻き付けギュッと端を結ぶ。
「あとは自分でして。」
とりあえずの応急処置が終わり、ななしはそう言って伊作を見上げた。
後の事は保健委員会委員長である彼に任せる方が確かだろう。
「……いつも、ごめん。」
いつも。
そう、ななしが伊作の手当てをするのは、これが初めてではない。
不運体質のせいなのか、怪我をした伊作と遭遇することが稀にある。
今日のように落とし穴の中で発見することも、しばしば。
「お互い様でしょ。」
ななしが笑うと、伊作も釣られて微笑んだ。
私が怪我をして、保健委員長である彼に手当てをしてもらう事も、もちろんあるのだ。
それに……私には彼を放って置けない理由がある。
「じゃあ。」と立ち上がり、早々に去ろうとしたななしを、何を思ったのか、伊作は腕を掴み引き留めた。
日弱そうに見えても忍者のたまご。
予期せぬ力が加わり、ななしの身体はぐらりと傾いた。
「わぁっ!」
寸前のところで足を引いたが、不運にも濡れた石で滑って踏ん張りが効かない。
転けるまではいかなかったものの、座っている伊作に寄りかかる程度には、身体が傾いていた。
バクバクと心拍数が上昇する。
この状況を作った当人も、予想外の出来事だったのか驚きを隠せず「っごめん!!怪我は無い?大丈夫?」と矢継ぎ早に心配の声を漏らした。
動揺はしているだろうが、腰に回された手がしっかりと身体を支えてくれている。
背中に感じる体温と力強い大きい手が、妙にくすぐったくて恥ずかしかった。
「大丈夫……あーびっくりしたぁ。」
ななしはわざとらしく平静を装い、ゆっくりと立ち上がると、気まずさを感じながら振り返った。
お互い突っ込みはしないが顔が紅葉のように真っ赤だ。
なんともぎこちない空気が流れる。
何か訳があって引き留めたのだろうが、伊作は居た堪れなさそうに頭を掻いただけだった。
十分な間を取り、伊作はまるで一大決心をしたかのように口を開く。
「その……良ければ今度、甘味でも食べに行かない?」
引き留められた理由を聞いて、ポカンと開いた口から「へ?」と間の抜けた声が漏れた。
「名無しには日頃お世話になっているし、今回のことも、迷惑を掛けたし……だ、だから、その……」
桃色に染まった頬と普段は見ることのない上目遣い。
これでも忍たまなのかと疑いたくなるくらいに、誘い方が明からさまで、心中を隠せていなかった。
勘違いでは無い、きっと。
そう思いたい。
身体がじわじわと火照り、鼓動が全身を巡る。
下から見上げてくる、熱の籠った真剣な瞳に見惚れ、私の思考は緩やかに止まった。
そのまましばらく反応できずにいると、伊作は不安そうに表情を曇らせる。
そして、思案したのち「実習帰りに見つけた、とっても美味しい団子屋なんだ!」と切り札の如く付け足した。
"とっても"の所が強調された、かつてない程の伊作渾身の誘いに面を食らった。
それが何故かとても可笑しくて、愛しくて
、張られた糸が緩むように、唇が自然と弧を描く。
「善法寺がそんなに勧める団子屋なら行ってみたいな。」
楽しみにしてるよと、人のことは言えない気持ちを滲ませた笑顔を向けた。
これまで必死に隠していたものが、あっけなくも溢れ出していた。
果たして、どう受け取られたのだろうか。
狭くなったななしの瞳には、頬を染めた伊作が映る。
一瞬目を見開いたかと思うと、それはそれは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「良かったぁ〜僕も楽しみにしてる。」
安堵に包まれ、髪と同じ色素の薄い睫毛が揺れて優しく細まった。
彼の性格をそのままに映した優しい笑顔が、鮮やかに記憶に残っていく。
柔らかい風がふわりと髪を舞い上げ、胸が痺れる様な恥ずかしさを感じながら、私たちは微笑み合った。
この、穏やかで春の陽だまりの様な笑顔が、私はどうしようもなく好きなのだ。
2023.04.09