「敬愛の先」
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日番谷はまだ活動時間に入っていない静まり返った廊下を歩いていた。
そのせいか誰ともすれ違わない。
執務室に入ると空気の流れが止まっていて、酷く重く感じた。
おはようございますと笑顔で迎えてくれるななしを思い出しながら、俺はしっかりと戸締りされた窓を開けた。
いつもは俺よりも早くななしがココへ来て窓を開け掃除をして。
綺麗になった部屋には新鮮な空気が流れている。
それがすっかり当たり前になっていた。
俺は席へ座り昨日の残りの書類に取り掛かる。
筆を待つも内容が全く頭に入って来ない。
思考は昨日のできごとで占領されていた。
何であんな事を言ったんだ。
別れ際の泣きそうなななしの顔が頭から離れない。
同じ部屋で仕事することになって、いつの間にかアイツの表情や言葉、仕草を意識する様になった。
頬を染め楽しそうに檜佐木と話している姿を見て、なんだかモヤモヤして腹が立った。
別に言わなくてよかった。
あんな顔させたかった訳じゃない。
「俺らしくないな…」
呟いた言葉は静寂に消えていく。
* * *
昨夜大泣きしたせいで目が腫れている。
冷やして少しは良くなったが朝いつもの時間に家を出られなかった。
平常心、平常心。
そう心で唱えながら執務室へ入ると二人は既に出勤しており私が最後だった。
「おはようございます。」
「あら、名無しさんがこんな時間に出勤なんて珍しいわね。」
昨日あれだけ飲んだのにケロッとしている副隊長。
「…寝坊しちゃいまして。」
「遅刻じゃないからセーフよ。」
本当の事はもちろん言えなくて嘘をついた。
目の腫れもそれ程目立っていないらしく触れられなくて安心する。
昨日のお礼を済ませて隊長の元へ行き朝の挨拶をする。
「おはようございます。昨日はありがとうございました。」
「おはよ。あぁ…」
それだけ言うとすぐに書類へ視線を移してしまった。
やっぱり少し気まずい様な…
なんか隊長も顔色が悪い気がする。
心配だったが今は声をかける精神状態ではなかったので私は黙って席について仕事を始めた。
少しすると隊長は定例の隊首会へ向かった。
隊長が部屋を出たと同時に机に突っ伏す。
…気まずい。
「…隊長となんかあった?」
私たちの微妙な空気を悟ったのか松本副隊長が眉を顰める。
「何かあったと言えばあるんですが、私が勝手にダメージを受けていると言いますか…」
なにそれと更に怪訝な顔になる副隊長。
「何でもいいけど、早く仲直りしなさい。」
…はい、と小さく返事をする。
「私七緒に用事があるから行ってくるけど、あんまり無理しないようにね。」
背中にポンっと触れると振り向かずに行ってしまった。
副隊長は私が泣いたことに気付いていたのかもしれない。
その気遣いが本当に有難かった。
ひとりになったおかげか、その後は余計なことを考えることなく仕事に集中できた。
時計を見ると12時を過ぎたところで、グッと背伸びをして休憩にすることにした。
吉良副隊長に昨日のお礼が言えていないのでお昼をとり三番隊へ向かう。
「十番隊三席ななしです。失礼します。」
コンコンとノックし声をかけると中からどうぞと声が返ってきた。
「やぁななしさん。」
執務室には吉良副隊長だけで昨日のお酒が残っているのが具合が悪そうだ。
「すみませんお忙しいところに、昨日のお礼が言えていなかったので…ありがとうございました。」
少し驚いたようだが、すぐに優しく微笑んでくれた。
「別に気にしなくてよかったのに。」
「あんな機会滅多にないので、本当に楽しかったです。」
「僕も楽しかったよ。」
「あの後は大丈夫でしたか?」
記憶が甦ったかのように青ざめる吉良副隊長。
その表情に聞いたらまずかったかなと焦る。
「あの後は大変だったよ…お酒を浴びるほど飲まされて。気づいたら僕も檜佐木さんも地面に転がってたよ。」
あははと笑っているが、想像するだけで地獄絵図だ。
いつもの事だから大丈夫だと言っているが、それは大丈夫なのかと心配になる。
二軒目に行かなくてよかったと心底思った。
「お茶でも飲んでいくかい?」
「いえ、お礼に来ただけですので今日は帰ります。」
隊長も副隊長も不在で長時間執務室を開けることが気がかりだった。
「では失礼します。」
「あぁ、またね。」
軽く頭を下げて部屋を出る。
松本副隊長と飲む時は気を付けないとな、と思いながら廊下を歩いていると癖のある言葉で呼び止められた。
「名無しさんちゃんや、こないな所で何してるん?」
会いたくなかったなという思いが顔に出ないよう振り返る。
「市丸隊長、お久しぶりです。吉良副隊長にお話がありまして帰るところです。」
「そうなん、もう帰ってしまうんや。」
残念やなぁ、と本当か噓か読み取れない笑顔を見せる。
「では、失礼します。」
頭を下げて横を通り過ぎようとすると、隊長の体がそれを阻んだ。
「…?」
私は怪訝な顔で身長差のある市丸隊長を見上げた。
上からの視線と近い距離もあってか威圧感があり、恐る恐るどうかしましたかと問いかける。
「そない怯えんでええよ。」
「怯えてなんて…」
失礼な態度だったと慌てて否定する。
「ほな悪いことせーへんさかい遊んでいき。」
「そ、そういわれましても…」
じりじりと追い詰められるような感覚に冷汗が流れた。
なんでこんなに恐怖を感じるんだろう。
「隊長の言うことが聞かれへんの?」
「…いえ、そういうことでは」
上手く呼吸ができない。
見上げる市丸隊長の笑みが更に深くなった気がした。
「ほんまかわええな…」
そういうと腰を折り顔を近づけ耳元で囁く。
「いじめたくなる。」
ゾワゾワっと悪寒が走った。
距離を取りたいのに固まった体が言うことを聞かない。
こわい。
すると後ろから急に手首を掴まれた。
「俺の部下にちょっかい出すんじゃねぇ。」
馴染みのある声に一気に安堵が広がる。
自然と体は動くようになり声の主を見た。
「…日番谷隊長。」
「行くぞ。」
そう言うと手を引かれたままで三番隊の隊舎を出た。
隊首羽織の十の文字を視界に映し、握られた手のぬくもりでもう充分落ち着いていた。
「…隊長、ありがとうございます。」
前を行く背中に声をかけると隊長は歩を止め振り返る。
「何もされてないか?」
心配してくれているのかいつもより眉間の皺が濃い。
「はい、大丈夫です。」
私は安心しきった顔で笑った。
隊長の側はこんなにも心強いんだな。
「そうか。」
ホッとしたような表情に胸が締め付けられる。
嬉しいのに、優しくされるとつらい。
これからの為にも気持ちを切り替えないと。
私たちは並んで十番隊の隊舎へ向かって歩き出した。
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