「温もりを知ったから」
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店内は清潔感のあるカウンター席だけの内装だった。
私たちの他に一組優しそうな老夫婦が座っている。
今まで入ったことのない様な高級な寿司屋に緊張した。
五条さんを見ると慣れているのか全然平気そうだ。
促されて手前の席に座ると、すぐに温かいお茶とおしぼりが出された。
「おまかせで頼んでるから、他に食べたいものがあったら追加で注文して。」
顔を傾けてそう言うと五条さんはお茶をすする。
このお店に違和感なく馴染んでいる姿にさすがだなと感嘆する。
店員がカウンターに文字の書かれた和紙を置いて本日のお品書きですと言ってくれたが、恐ろしくて手を伸ばせない。
メニュー表がこの紙タイプという事は、仕入れをしてからその日の料理を決めて提供してくれるという事で、即ち最高の食材で最高の料理が食べられるという事で、凡庸な私でも十分に推測ができる。
確実に値段が高いという事が。
うだうだ考えていることが億劫になり私は思考を止めた。
もう値段は確認しないことにする。
落ち着かせるために私もお茶を一口飲み緊張を和らげた。
お寿司は大将が目の前で握ってくれて、一貫ずつカウンター越しに提供してくれた。
美味しい。
本当に美味しい。
口に入れる度に目を瞑ってゆっくりと味わった。
上質な脂が乗ったネタと、絶妙な寿司酢の塩梅、加えてお米の甘みとシャリの解け具合。
言葉にならない。
これが職人技か……
こんな贅沢していいのかなと心配になる。
芸術作品でも見るように、大将の動きに酔いしれていると五条さんに名無しさん見過ぎと笑われてしまった。
「だって、すごいんです……全てが。」
「何それ。」
五条さんは可笑しそうに口元を緩ませる。
「今まで生きてきて、こんな美味しいお寿司食べた事ないです。五条さんありがとうございます。」
緩み切った顔で笑顔を作ると、五条さんは驚いたあと目を細めて柔らかく微笑む。
「そんなに喜んでもらえるなんて、連れて来た甲斐があったよ。」
私たちはゆっくりと過ぎていく時間に任せて、美味しい料理を十分に堪能した。
お店を出た頃には辺りは暗くなっていて、街灯の明かりがぽつぽつと灯っている。
繁華街から外れていたので人気も少ない。
「食後だし少し歩く?」
そう尋ねてきた五条さんの言葉を断る理由が無い。
「そうしましょう。」
私たちは宛てもなく歩き始めた。
タクシーを拾えばすぐに帰ることができるのにそうしないのは、五条さんも私と同じ気持ちなのかなと嬉しくなる。
肩が触れそうで触れない距離を保ってゆらゆらと歩いた。
「今日はありがとうございました。すごく楽しかったです!」
「うん僕も……こんな楽しかったデートは始めてだよ。」
二ッと歯を見せる五条さんに頬が緩む。
たとえ五条さんが私を好きじゃないとしても、一緒に過ごした時間を楽しいと思ってもらえた事に心が跳ねる。
もう随分と涼しくなったなぁ。
髪を靡かせる風は今の私には心地良い。
少し進むと公園の入り口が見えてきた。
その一角だけ緑が茂っていて、先の方まで続いているので中々広い公園なのだろう。
「入ってみる?」
私の視線に気づいたのか五条さんが指差す。
学生でもあるまいし夜の公園に入って一体どうするのか。
だが口実を作ってでももう少し一緒にいたいという気持ちもある。
迷っている私の手を引いて、五条さんは公園に足を向けた。
公園の中は綺麗に整備されていてデートスポットなのかカップルが点々と肩を寄せ合っている。
あぁ、選択を間違えた。
場違いだ。
周りから見れば他と変わらないカップルに見えるだろうが、私たちは付き合ってもいないし言うなれば只の同僚。
気まずくなるのではと焦る。
「カップルばっかりだね。」
「そ、そうですね。」
やっぱりそう思いますよね。
「僕さ、目的もなく女の子とこうして歩くの始めてだよ。」
え?っと見上げると私を見て可笑しそうに、つまんないしホテルに直行してたからと五条さんは言う。
そりゃあそうか、好きになったことないって言ってたし、男だしと納得する。
「でも不思議だね、名無しさんとならこーゆーのもいいなって思うよ。」
不意打ちで心臓が飛び上がった。
胸に手を当てて気付かれない様に落ち着ける。
「あ、あそこ空いてるから座ろう。」
そう言って五条さんはベンチに向かって行く。
私は気付かれずに済んでホッとした。
並んでベンチに座ると、風の音とカサカサと葉が擦れ合う音だけが聞こえて私たちは沈黙に包まれる。
視線の先にポツンと自販機が見えて、気温と暗闇と煌々とした光、そして隣に五条さんがいることによって初めて出会った日を思い出す。
あの頃の自分は、まさか五条さんを好きになるなんて予想もしていなかっただろう。
私は横に座る五条さんを盗み見た。
風で流れる白髪は暗闇でも輝いている。
とても綺麗で見惚れた。
私の視線に気づいたのか、五条さんはおもむろに口を開く。
「僕ってさ、こんな性格だから結構嫌われてるし敵を作りやすいんだよね。」
いきなり何の話なのかとポカンとしてしまった。
元々は五条さんの事を嫌っていたし、数々の傲慢な態度を見てきたので否定できずにいると、五条さんは気にせず言葉を続ける。
「産まれてからずっと五条家の下で生きてきて、手に入らなかったものってないんだ。」
どこか遠くを見て話しをする五条さんに、私は黙って耳を傾ける。
「………人の心以外。」
人の、心?
「金や権力、容姿、強さ……どれを使っても無理。難しいよね、親友の心さえ掴んでおけないんだもん。」
五条さんの言葉にハッとする。
呼吸をするのを忘れる程に、体が動かなくなった。
「自由に生きてきたせいか、人の心なんて全然わからなくて。本当に欲しいものは手に入らない。」
きっと夏油さんの事を想って言っているんだろう。
話にしか聞いたことが無いけど、大切な人なんだという事がわかる。
五条さんは自由に生きてきたと言っているけど本当は自由ではなくて、きっと色んな事を制限されてきたんだ。
私は五条さんを見てそう感じていた。
「だけど名無しさんには……名無しさんにだけは離れていってほしくない。」
「……え?」
ずっと前だけを見ていた五条さんが、綺麗な白髪を揺らして私を見る。
「失いたくないって思ってる。」
無音の世界にいる様に、周りの音は聞こえなくて。
五条さんの言葉だけが私の脳に届く。
私の顔を見つめていた五条さんは、フッと力を抜くといつもの笑顔を見せた。
「僕ってこーゆーキャラじゃないよね。変なこと言ってごめん。」
自称気味に笑う姿に心が軋んだ。
作った笑顔が余計に苦しい。
私の事をそういう風に見てくれていたんだ。
大切に思ってくれていることが十分に伝わってきた。
「私はそうは思いません……」
そう言った私を見て驚いたように五条さんは目を見開く。
「自分勝手で傲慢な五条さんですけど……私は気持ちに寄り添ってもらいました。五条さんに救われた。ちゃんと人の心がわかってると思います。」
差し出がましいだろうが、どうしても伝えたかった。
少しでも私の気持ちが伝わればと思った。
「私は離れていきませんよ。」
そう言って笑いかけると五条さんはふふっと笑い出す。
「ありがとう。」
呟いた声は確かに私の耳に届いた。
「名無しさんってさー僕の事嫌いな割に優しいよね。」
「ま、まぁ。」
そう言えば私、五条さんの事好きじゃないって言ったんだった。
今の気持ちと矛盾があって言い淀む。
何となく居心地が悪くなって目を逸らした。
「あれ、もしかして惚れちゃった?」
「……」
お道化た様な声に答えられなくて黙る。
あ、待って!
もしかしてこれ、すぐに否定しないといけないやつじゃ……
沈黙だと肯定にとられると勢いよく顔をあげると、五条さんの頬が薄っすら色づいていた。
体が固まる。
なんでそんな表情。
私も伝染したように頬が熱くなる。
「あ、えっと……」
今更だが否定しようと口を開いたところで、五条さんの腕が背中に回された。
私の身体はすっぽりと五条さんの腕の中に収まる。
え!?
混乱してどうしたらいいのか両手が宙を舞った。
「……今の、肯定って受け取っていいんだよね。」
「っ……」
耳元で囁かれる声にぴくっと体が反応する。
もうここまできたら隠しきれない。
私は観念して首をゆっくりと縦に振った。
まさかこんな風に伝える事になるなんて……
私は煩い鼓動を聞きながらギュッと目を瞑った。
この抱擁は果たしてどう受け取ればいいんだ。
そんなことを考えていると、五条さんの手が肩に触れて体が離れていく。
「名無しさん顔真っ赤。」
ニヤニヤと意地悪な顔をしている五条さんに、更に頭が熱くなる。
「僕たち付き合っちゃおうか。」
「つ、付き合う!?」
「だって名無しさん、僕の事好きなんでしょ?」
キッパリと言われて動揺する。
もちろん好きだ。
同情とかそう言うことではなくて、ただ純粋に五条さんが好き。
「……そう、です。」
「じゃあいいよね。」
嬉しそうに口角を上げる五条さんに頭が真っ白になる。
「でも、前にも言いましたけど、お互いそうじゃないと……」
薄い呼吸の中やっとのことで言葉を発する。
「それ本気で言ってるの?」
「え?」
ピリッと空気が変わって五条さんの眉が寄った。
機嫌が悪そうに見下ろしてくる。
「好きに決まってるじゃん、鈍感。」
「……」
あ……
五条さんが今、好きだって言った。
回らない頭で五条さんの言葉を反芻する。
「で?」
思考は五条さんの言葉で遮られた。
「付き合うでしょ?」
「……は、い。」
私は呆然としたまま誘導される様に答える。
五条さんはそんな私を見て優しく笑うと、頭の後ろに手を添えて額にちゅっとキスをした。
「今日から名無しさんは僕のものね。」
甘く囁く声に全身が痺れた。
はち切れそうな心臓と、浮かれ切っている脳。
自分の物ではない様な感覚に、五条悟と言う人間が改めて怖くなった。
「本当可愛いね名無しさんは。」
「そんなことないです。」
恥ずかしくて尻すぼみになる語尾。
愛おしそうな目で見つめられて五条さんの大きな手が私の頭を撫でる。
「……そろそろ帰ろっか。」
「そう、ですね。」
まだ帰りたくないと言う言葉は頑張って飲み込んだ。
「僕の家でいいよね?」
「…………は?」
今なんて?
「だから僕の家に一緒に帰るよねって。」
「それは、その……」
つまりそういう事でいいんだよね?
まだ一緒に居たいとは思ったけどそれは早すぎるんじゃ、と目を泳がせる。
「今日は僕のこと、満足させてくれるんじゃなかったの?」
サングラスをずらした五条さんは鼻先が触れそうな距離に顔を近づける。
怪しい笑みを浮かべ、二つの蒼が私を映した。
「そういう意味で言ったんじゃないです!それに、まだ心の準備が……」
そう言って動揺する視線を逸らした。
「大丈夫、我慢するから!名無しさんは一緒に居たくないの?次だっていつ会えるかわからないのに。」
そう言われてしまうと、どうしようもない。
私は折れて五条さんの家へ向かう事になった。
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