「温もりを知ったから」
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「伊地知、あと何件?」
運転席の後ろに座って車体を弾く雨の音を聞いていた。
朝はあんなに晴れていたのに、陽が沈んだタイミングで降り出した雨。
「次で今日は最後です。」
「ん、言っとくけど明日は働かないよ?」
「わかっています。」
五条さんにあれだけ言われたら休みにするしかないでしょうと、ブツブツ文句が聞こえる。
窓ガラスを流れる水滴に、ブレーキランプの赤が反射している。
嫌な感じだ。
明日は待ちに待った名無しさんとのデートだと言うのに。
ポケットの中で振動するスマホを取り出し通話ボタンを押した。
「なに硝子。」
『名無しさんが運ばれてきたぞ。』
「は?どういう事?」
ほら、嫌な予感って言うのは当たるものだ。
『怪我をしたからに決まってるだろ。』
柄にもなく脈が早まる。
『命に別状はないが、一応報告しといてやる。』
それを聞いてホッとした。
なんて心臓に悪い。
「すぐ高専に戻るよ。」
電話を切るとバックミラーに映る伊地知と目が合う。
「飛ばして?」
僕の声にビクッと反応した伊地知は、冷汗を垂らしながら車のスピードを上げた。
* * *
重い瞼を開くと灰色が見えた。
コンクリート打ちっぱなしの天井だ。
そこで治療の為に硝子さんの所に運ばれたのだと理解した。
「目が覚めたようだな。」
静かな部屋の中に落ち着いた声が響く。
「硝子さん。」
「良く怪我をするな名無しさんは。」
「すみません…」
そう謝ると硝子さんは微かに微笑んで、死ななければそれでいいと言った。
「傷口は塞いだが、過剰出血で貧血になってる。このまま暫くはゆっくりとしていろ。」
「はい。」
私は返事をして素直に従う。
「これから席を外すが何かあれば呼んでくれ。」
そう言うと硝子さんは部屋を出て行った。
気を失ってどれくらい時間が経ったんだろう。
ベッドの周りをカーテンが囲っているので外の様子もわからない。
時計もない。
周りを見る為に身体を動かそうとすると、グラリと頭が傾いて眩暈がする。
正に貧血の症状だ。
諦めて大人しくベッドに横たわっていると、ガチャっと扉が開く音がして。
カーテンが風で揺れたかと思うと、シャッと勢いよく開かれた。
「ごじょ、さん……」
目隠しで表情は分かりづらいが、確実に怒っている。
ピリッとした空気を肌で感じた。
「何してんだよ。」
「何してって……」
口を開いたところで一気に距離が縮まる。
サラサラの髪が顎に触れた瞬間、ベッドがギシっと音を立てた。
淵に腕を付き五条さんは額を私の胸元に埋めて、ふーっと大きく息を吐いた。
それはまるで私の心臓が動いているのを確認するかのように。
身体に乗った重みが妙にくすぐったい。
「セクハラですよ五条さん。」
耐えられなくなって悪態をついてみたが、そこから動く気はないようだ。
「……心配かけた罰。」
そう言われれば言い返すこともできない。
恥ずかしさでどうにかなりそうだったが、五条さんが退くまで我慢する。
ごそっと体の上で動いたのを感じて見下ろすと、目隠しをずらした五条さんと目が合った。
「柔らかいね。」
「退いてください。」
イラッとして冷たい視線を向けると、五条さんはやっと体を起こした。
ドキドキしていたのが馬鹿らしい。
「怒るなよ〜」
「普通怒りますよ。」
ノックもせずに入って来るし、と文句を言うとそうだっけ?とケラケラ笑う。
「でも元気そうで良かった。」
心配してくれたのは本当の様で、安堵の表情を見せる五条さんに不謹慎だが嬉しい気持ちが込み上げてくる。
「もっと強くなってよ、僕くらい。」
「無茶言わないでください。」
「怪我する度にこんな気持ちになるなんて御免だ。」
そう言われてもだ。
職業柄怪我は仕方のない事で、そんなすぐに強くなれる訳でもない。
難しい顔をしていると五条さんは音を立ててベッドの淵に腰掛けた。
「これじゃ明日のデートは延期かな。」
落ち込んでいるのか声に元気はなくて、横顔もどこか沈んでいる。
かなり楽しみにしてくれてたみたい。
申し訳ない事をしてしまったな。
私だって楽しみにしていたから、できることなら延期はしたくない。
「…大丈夫なので明日デートしましょう。」
「は?何言ってんのこんななのに。」
「貧血なんてすぐに治ります。」
「名無しさんの大丈夫は信用できないから……硝子に確認する。」
否定しておきながら諦めきれずに確認しようとするなんて、なんて可愛いのだろう。
こんな事を言ったら揶揄われそうなので絶対に言わないが、自然と頬が緩む。
「何笑ってんの。」
「笑ってません。」
「笑ってるじゃん。」
表情を見られてしまったが、後の事を考えると認める訳にはいかない。
ブスッとした顔の五条さんに又もや笑いが込み上げてきて、私は首を動かし視線を逸らした。
「今、何時ですか?」
「20時過ぎたとこ……話逸らすなよ、あと目も。」
長い指が頬を滑り強制的に顔の向きを戻される。
外された目隠しは首元にぶら下がっていて、アクアブルーの瞳にしっかりと捉えられた。
この人は基本的に距離が近い。
目の前の彼をもう好きだと自覚してしまっているせいで、みるみる脳が沸騰していく。
長い睫毛が揺れる度に心臓が跳ねた。
無意識でこんなことをしているのなら質が悪い。
「本当に心配したんだ。」
「……すみません。」
忙しい中わざわざ様子を見に来てくれて、五条さんがこんな表情で私を心配してくれている。
もちろん申し訳ない気持ちでいっぱいで。
だけど、何でだろう。
きっと私の性格が曲がっているせいかな。
すごく嬉しい。
「五条さん。」
「なに?」
「ありがとうございます。」
私の言葉に一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに表情は変わり二ッと満足そうに口角を上げる。
「どういたしまして。」
前にもこんな気持ちになった。
少しでも五条さんの心の中に私がいると、そう感じることができて嬉しいのだ。
「僕は硝子のところに行くけど、ちゃんと寝てなよ。また様子見に来るから。」
そう言うと、五条さんは目隠しを付けた後部屋を出て行った。
パタリと扉が閉まった音がして、顔の上までタオルケットを引き上げた。
目を閉じるとトクトクと普段よりも早い鼓動を感じる。
あぁ、好きだ。
五条さんのことが好き。
怒った顔も、呆れた顔も、悪戯ぽい顔も、心配する顔も、笑顔も。
ずっと見ていたい。
重症だな。
また、来てくれるんだ。
そう思うと顔がだらしなく緩む。
誰も見ていないからいい。
私は五条さんに会えた嬉しさに浸りながら、貧血による気怠さにゆっくりと眠りに落ちる。
私はどれくらい眠っていたのだろう。
瞼を開いて映った景色は眠った時のまま、無機質なコンクリート打ちっぱなしの天井。
上体を起こすと身体がだいぶ楽になっていた。
倦怠感も目眩もない。
視界の端に白いものが見えて顔を向けると、コンビニの袋がサイドテールに置かれていた。
手に取り中を覗いてみる。
お茶におにぎり、ゼリーにゆで卵そして鉄分入りドリンクにパウチのひじきの煮物とレバニラが入っていた。
これは、一体なんのチョイスなのか。
ふっとサイドテーブルを見ると、まだ何か乗っている。
白のトランプ程の大きさのメモが置かれていた。
『寝てたから食い物だけ置いとく、感謝しろよ。明日は体調みて決めるからしっかり食え!』
殴り書きの文字にふっと笑えた。
誰からなのか書かれていなかったが五条さんだと察しかつく。
私はメモを大事に仕舞うと、食べ物の入った袋を再度広げる。
これ全部食べ切れるかな…
そんなことを考えながら、五条さんの優しさに笑みが零れた。
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